高島秋帆入牢の報と同時に、斎藤三九郎は加賀藩へ走った。
その裏事情は不明だが、斎藤家先祖は加賀藩の名族・斎藤家~との説もあり、
内密に通じていたのかも知れない。
ややして江戸の加賀藩上・下屋敷で炮角場(砲的場)が設けられ、
西洋砲術練習を藩主が幾度も見聞したの記録がある。
時はペルー来訪を受けた直後の嘉永6年、東京湾の台場が完成した頃に、
下屋敷でも大砲鋳造を開始。
この裏に斎藤三九郎の存在が伺えるが、どうだろうか~。
板橋区郷土資料館編『中山道板橋宿と加賀藩下屋敷』には、
下屋敷での大砲鋳造の様子が当時の絵で紹介されていた。
(板橋区のオフィシャルサイトでも紹介)
加賀藩の記録では、ペリー艦隊来航を受けて「火術方役所」を開設。
下屋敷には小川群吾郎のグループや川口の鋳造師ら多数をもって組織され、
嘉永6年(1853)暮に鋳造開始。約1年半後の安政2年に12ポンドの青銅製
ホウイッスル砲6門他、計20挺が完成と記録されている。
小生には知識皆無の鋳造だが「上型・下型・中子型(芯=空洞)」パーツで造るゆえ、
石神井川の水車利用での「砲身刳り抜く錐通し」の説明は、
穴開けではなく「穴磨き」かもしれないと推測したが、いかがだろうか~。
まぁ、それはどうあれ、水車が動力なのは間違いない。
下屋敷絵図を見ると、石神井川が流れ込んだところに「水車小屋」があり、
やや下流に大型水車が描かれている。いづれかの場所で作業が行われたのだろう。
この大砲鋳造の実績から、明治9年に明治政府初の火薬製造所が下屋敷に出来、
それが後の陸軍火薬研究所になっている。当時の黒色火薬製造もまた、
石神井川の水利用(回転力)で行われ、
これまた下屋敷跡地の一画に「圧磨機圧輪」記念碑が遺されている。
かくして長崎「出島」の高島秋帆~江川太郎左衛門(英龍・担庵)~
剣豪・斎藤弥弥九郎・三九郎兄弟~加賀藩~下屋敷~石神井川の経緯で、
周辺に造兵廠は拡充して行った~と私なりの結論に納得した。(その4)
次は「高島平」駅前の「高島平図書館で」で
奥村正著『加賀藩江戸下屋敷』を閲覧しに行く~。