前述の資料本に加え、人物叢書・有馬成甫著『高島秋帆』を参考に
彼の経歴調べから~。高島は寛政10年、長崎町年寄の名家の生まれ。
父はポルトガル人居住地「出島」構築費出資の富豪25名の一人。
外国貿易は長崎会所の管理下で、彼は父の代より会所の調役かつ砲台勤務。
父に学んで「萩野流砲術」師範役。出島の出入りも、個人輸入も自由~の特権を有していた。
砲術勉強も父と同じくカピタン部屋にオランダ人を呼び、通詞を介して質問。
砲術の研鑽を重ね、また砲術の欄書多数、西洋武器も多数輸入。転売もしていた。
(これは司馬江漢のスケッチ~銅版画。右はカピタン部屋。江漢の長崎滞在は
天明8年(1788)。寛政4年(1792)に「銅板輿地全図」(世界地図)はじめ
長崎で入手の天文学、世界地図、物理系図の銅板模写を次々に発表。
それ以前の明和8年(1771)には万象亭が「紅毛雑記」を刊。
人体比較図なども発表している。
あたしはかつて司馬江漢、韮山代官・江川太郎左衛門(担庵)、杉田玄白らのお勉強済ゆえ、
もう少し時代背景を記そう。
杉田玄白が人体解剖図『ターヘル・アナトミア』を入手したのが明和7年(1771)で、
『解体新書』刊が安永3年(1774)。高島秋帆はその24年後に誕生。
前述、オランダ人に砲術の質問を始めたのは33歳、天保元年(1832)の頃で、
すでに黒船来航で、各藩は幕府より5,6年も前から
高島秋帆の門を叩き西洋砲術準備を開始。

(左:江川太郎左衛門〝担庵〟。右は斎藤弥九郎)
天保12年(1841)、幕府要請で高島は徳丸原(現・高島平)で西洋砲術の演練。
参加した江川太郎左衛門(韮山代官)らに砲術を免許す。
江川太郎が出て来たところで、彼の配下の剣豪・斎藤弥九郎と弟・三九郎も登場。
講談のような幕末話になって面白くなるが、
今回はここまで。(その2)
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