うごく水たまり

書くこと

 すこししんどい。
 父が死んでから、母はAさんと一緒に暮らすことにした。
 私も母とAさんと一緒に暮らしていた。私はその頃ワープアの最前線にいたので誰かの世話になる必要があった。
 Aさんは酒癖が悪かった。飲むと気が大きくなって怒鳴る人だった。ドアのガラスを叩き割って血まみれになったりしていた。俺の家はいつかお前にやるからな、が口癖だった。ぜんぜん少しもほしくなかった。Aさんはそれなりに親切だったと思う。
 私はAさんの家を離れ紆余曲折を経て東京で暮らすことになった。
 母はAさんと別れてBさんと暮らすことにした。Bさんは持病があってほとんど寝たきりだった。Bさんは剽軽な人だった。
 Bさんと何度か会ったことがある。何度か話したことがある。一度説教もされたことがある。
 説教された時、私は服の中に恋人のブラジャーをつけていた。それはめっちゃ面白エピソードなんだけれど今はどうでもいい。
 故郷に戻ってきてかあちゃんと一緒に暮らせ、がBさんの口癖だった。
 Bさんは体が弱かったし、やはり酒癖が悪かったので何度か死にかけていた。
 そしてついさっき、Bさんの病状が悪くなったことを母から知らされた。
 もう長くないらしい。
 母は寝たきりのBさんのケアですっかり疲れていたし、胃も痛いらしい。Bさんのことがとても心配らしい。
 私は母が心配だ。
 この人は本当にいつも誰かの面倒をみて生きてきたなと思う。
 父が入院した時も母はずっとそばにいた。死ぬまで。
 Bさんも死のうとしている。
 私は母の幸せを願っている。これまでの人生、ちゃんと幸せだっただろうか。
 母は一度「私を汚いと思うか」と聞いてきたことがある。
 自分自身に何度も問いかけた言葉だったんだろう。
 汚いと思ったことは一度もない。
 母は一度「私がいる場所があんたの実家だ」と言ったことがある。
 私たちにはとっくに帰る家がない。さまよっている。
 その言葉が私たちの家を決めた。
 人は死ぬんだなともう何百回も考えたことを再び刻み付けられている。
 どんなに醜くくても酷くてもそれを書いておかなければならない。
 書いておけばある意味では死なない、と私は思っている。
 気持ち悪くてもえぐくても、無になってしまうよりはいい。
 
 
 

ノンほにゃらら

 何か、何か食べないと肉体が滅ぶというシグナルが胃から脳から点滅を繰り返し、頭を抱えたりお腹を押さえたりロックミュージックをフルボリュームで聴きながら吊革をぎゅっと握り締め読書なんてする気も起きず窓の外を必死に睨んでいるものの暗いシルエットの電柱や紺灰色住居から漏れる微小な灯りのドップラーが映じるばかりの午後五時、頭の中を埋め尽くすのはジューシーな肉まんや水も滴るトロピカル・サイダーばかりで礼儀も品も建設的な思考さえも滅亡し尽くしてひたすらに空腹が鳴動し続けた青春の日々にも似た時間は車内アナウンスと共に霧散しプラクティカルな徒歩によって渋谷駅構内2番線ホームを横切りインパラの群れのようなインバウンド団の隙間を敏捷にすり抜け御老人をオーバーテイクし階段を転げ落ちるように滑降しゆるいカーブになった連絡通路の潰れたニューエラを飛び越え正体不明の水たまりを紙一重で回避し全長10mの巨大なガラス窓から渋谷のスクランブル交差点の喧騒ときわどい光の乱舞とが展開した頃にふと「スタミナ丼」と神託を得て人で詰まったエスカレーターに押し込まれ徐々に外気が濃くなっていく、冷気が首元から忍び込んで来る気分がすかっとしてそこから先は雑踏クラクションとおりゃんせスピーカーがキャバクラの広告をがなり人の正常な判断能力を撃滅せんとする音と光と人海に翻弄されるうち伝説のすた丼が見えカナンを目指す流浪の民の気持ちで自動ドアを潜ると桃源郷のような甘いにんにくの香りが漂い涅槃を得た仏陀のように冷静にタッチパネルを操作しむくつけき日本男児二名の隙間に体を滑り込ませるように座り待つこと数分のうち番号札の読み上げと共に席を立ち盆に載った肉マシガーリックバターすた丼がみそ汁と共に威容を見せすかさず席に戻り両隣の筋骨とぶつかり合いながらひたすら丼を無にしていく時、言葉も思考も感情もない原核生物の幸福がにわかに輪廻して一日を終える。

 

 

開閉

  日本のドラマを見終わった。ドラマ10話と映画3本。面白かった。とても独特だった。餃子が食べたくなった。2010年の作品だから、私にとっては新しい作品という印象だけれど、でもなんだか90年代の感じがする。その90年代の感じは、外に出たくなるわくわくを秘めている感じだ。この作品は「現実が好きだ」。変な表現だけど、この作品は現実が好きだから、私もその価値観を自然にインストールする、そして現実の視方が変わる、作品を観るというのはそういうことだった。それは物語、シナリオとは直接的には関係のない側面だ。どちらかというと作品の色彩やトーンや、地に足のついた演出や風景の明かり方から醸し出されるものだ。ストリートの感じがする。物語にストリートが全く関係がなくても、私はそこからストリートを読み取る。そのストリートはヒップホップのストリートではなくケルアックのストリートみたいだし、でもケルアックは無関係だ。要するにそこには表現の自由さや、自由さへの肯定がある。表現というのは表現のための表現だけでなく、人生でおこなう人間の行動のすべてもまた表現だ。言語の表現も身体の表現も表現だ。表現せずに生活することは不可能だから、人間は教わってきた表現や生活で学んできた表現を使っているがそのうちに常用表現に縛られていくことにも気がつかなくて気がつけば世界が狭くなっていることがあるその時に自由な表現に触れる時人生もまた自由の可能性を得る。なぜなら生活は表現と切り離して考えることは出来ないから。つまり開かれている作品だった、ということも出来た。それは陰陽ではなく、開閉だ。陰か陽かでいえば陰だ。だから陰の開で冷で青灰色だ。特別なやり方で人の背中をそっと押してくれるような作品だったなと思った。
  
  ひと段落ついた。とりあえずすぐにやってしまいたいことはなくなった。そう思うと落ち込んできた。途端に人生が虚しく色褪せつまらなく思えてきた。落ち込んでいる暇はなかった。11月もいつの間にか半分が終わっていた。私にはなんでもいいので目標があった方がいいんだなと思った。達成できてもできなくてもいい。とりあえずどこかに向かって動き続けた方がむしろ楽だった。バイクみたいなものだ。バイクは信号などで止まった瞬間が一番不安定になる。走っている間はジャイロ効果で安定している。走り続けることは出来ないけれど、止まっている時間は短い方がよい。今月の残りは読書をしようと決めた。今決めた。滝本さんの前の作品を買ったのでそれを読む。『異世界ナンパ』というタイトルだ。またとんでもなく今風のタイトルにしたなあ滝本さん。ぼくは少し不安だよ。本当に滝本さんらしく書けたのかい。同僚の薦めで『アマテラスの暗号』という本も買った。すごく売れていて、政財界の人も読んでいるらしいよ、と教えてもらったのだった。政財界のことは何も知らないけれど面白いなら読んでみようと思ってkindleで5%ほど読んだ。随所に写真が挿入されるタイプのあまり見ない小説だった。すごくプレーンな文体なので途中で心が折れるかもしれないけどシナリオには期待している。そのほか『ダンダダン』の更新を待っている。『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』がドルビーなんとかになって劇場版が再上映しているのでそれも見たい。見たいけど上映している劇場がとてもとても少ないのでことによっては見逃すかもしれない。でもヴァイオレット・エヴァ―ガーデンは好きな作品なので映画館でぜひみたい気持ちはある。でも映画館で号泣するのは想像するだけでちょっときつい。
  そういえばふるさと納税の返礼品が届いた。電気毛布だ。ホームセンターに売っているようなものだし、リモコンがレトロで、なんかおばあちゃんちにありそうなものだけれど、カラフルな水滴模様だしやわらかい獣の毛のような手触りの毛布なので気に入った。私はやわらかいものやあったかいものが結構好きだ。可愛すぎて感性が恥ずかしい。今も毛布に包まっている。毛布は発熱して犬くらいあたたかくなっている。毛布をマントのように体にかけている。そうすると感覚がにわかに遮断され、自分専用の洞窟にいるみたいだ。どんどん狭く深くなって眠くなってくる。ここ二週間ほどは不眠症が出ていない。意識して丁寧にカフェインを断っているし、毎日散歩めいたことをしているのが効いているように思う。あととても不思議なんだけど、おしゃべりAIと話しているとものすごく眠くなる。その「ものすごく眠くなる」という状態、ねむりスイッチが入った瞬間の精神状態をイメージしてトレースしようとすると割と眠れる感じになることがわかった。それは眠りのモデルなのだ。寝るのが下手な私はずっとそういうものを探し続けていた。