- タイトル
- Friend of the Devil
- アーティスト
- Grateful Dead
- ライター
- Robert Hunter, Jerry Garcia
- 収録アルバム
- American Beauty
- リリース年
- 1970年
- 他のヴァージョン
- live versions of the same artist, Phil Lesh & Friends, Bob Dylan (boot)
グレイトフル・デッドの「座付き作詞家」ロバート・ハンターの詩を、わたしはちゃんと理解できたためしがありません。行文の解釈そのものができないこともあれば、解釈はできても、全体として意味を成さないこともあります。それで、デイヴィッド・ドッドの注釈付きデッド歌詞サイトおよび注釈付きデッド歌詞集のようなものが登場し、デッド・ヘッズの人気を博しているのでしょう。
本日のFriend of Devilもまた、わかるような、わからないような、どこかもやもやとした詩ですが、楽曲としては、代表作に入れてもおおかたのヘッズの賛成が得られるであろうほど人気があり、ライヴでも長期間にわたって彼らのレパートリーでありつづけています。大物のカヴァーもあって、ハンター自身が予想したように、クラシックの地位を獲得したといってもいいかもしれません。
なによりも重要なのは、わたし自身、デッドの厖大なカタログのなかでも、この曲は最上位にくるものと考えているということです。ハロウィーンだろうが、クリスマスだろうが、正月だろうが、かこつけられるものがあれば、なんにだってかこつけて、取り上げずにおくものか、なのです。
◆ 犬に追われて十字路へ ◆◆
それでは、いちおう歌詞を眺めてみますが、最初に申し上げたように、よくわからない詩です。音のほうに関して百万の文字をタイプする必要があり、予定がつまっているので、わからないところはどんどん飛ばします。作詞家ではなく、詩人が相手のときは、ゴチャゴチャいわないのが安全です。まずはファースト・ヴァース。
I was trailed by twenty hounds
Didn't get to sleep that night
Till the morning came around
「俺はリーノから逃げてきた、20頭の犬に追跡され、その夜は朝がくるまで眠れなかった」
リーノは、なにも説明がないので、ネヴァダ州の町、離婚で有名なあのリーノと考えておけばいいでしょう。「犬」は警察犬と受け取るのがノーマルだと思いますが、この詩が見た目のとおりのものではなく、なにかをパラフレーズした象徴的なものであった場合には(ロバート・ハンターの詩はその種のものが多いと感じます)、警察犬と決めつけることは、想像力のおよぶ範囲をせばめてしまう恐れがあります。北欧神話の地獄の番犬フェンリルなんていうのもいることですし。
以下は何度も繰り返されることになるコーラス。
A friend of the Devil is a friend of mine
If I get home before daylight
Just might get some sleep tonight
「逃走にとりかかったけれど、手間取ってしまった、悪魔の友だちは俺の友だち、陽が昇るまでに家に帰れれば、今夜はすこしは眠れるかもしれない」
語り手はリーノでなにかしてすでに逃げてきたのだから、さらに「逃走にとりかかる」となると、こんどは「高飛び」という第2段階のことをいっているのでしょうか。
悪魔が指し示すものはわかりませんし、したがって当然、悪魔の友だちは俺の友だち、というタイトルの意味も、わたしには見当もつきません。何度も繰り返されるコーラスが意味不明とくるのだから、ロバート・ハンターという人も困ったもので、十代からずっと悩まされっぱなしです。
セカンド・ヴァース。
He loaned me twenty bills
I spent that night in Utah
In a cave up in the hills
「悪魔にばったり出会ったら、20ドル貸してくれた、その夜はユタの丘の上の洞窟ですごした」
表現としては、どこにもむずかしいところはないのですが、意味するところはよくわかりません。悪魔にバッタリ出会う、となると、だれしもロバート・ジョンソンを連想するところで、ドッドの歌詞サイトでもそういう意見が出ていますし、houndに関係して、ジョンソンのHellhound on My Trailの歌詞が参考として掲載されています。
またコーラスがあって、サードへ。
But the Devil caught me there
He took my twenty dollar bill
And he vanished in the air
「俺は堤防まで逃げたけれど、そこで悪魔に捕まった、奴は俺の20ドル札を取って、宙にかき消えてしまった」
◆ 犯罪物語、でいいのかどうか ◆◆
以下はブリッジ。
away each lonely night
First one's named sweet Anne Marie
and she's my heart's delight
Second one is prison, baby
the sheriff's on my trail
If he catches up with me
I'll spend my life in jail
「さみしい夜を泣きあかしている理由は二つある、ひとつはやさしいアン・マリー、彼女は喜びのみなもと、二つめは監獄、保安官が俺を追っている、捕まったら、一生、監獄で過ごさなくてはならないんだ」
ここは、そのままの意味であるのなら、とくに問題なくわかる箇所です。ブルースやカントリーによくある犯罪者の物語と受け取っておけばいいのかもしれません。悪魔はやっぱりわかりませんが。
フォースにしてラスト・ヴァース。
And one in Cherokee
First one says she's got my child
But it don't look like me
「チーノに女房がひとり、チェロキーにもうひとりいる、最初のほうは、俺の子どもを生んだというけれど、俺に似ているとは思えない」
重婚の罪まで犯しているとは、困った語り手です。よけいなことですが、「小言幸兵衛」で、借家しようとあらわれた男が「家族は女房がひとり」といって、幸兵衛さんに「女房はひとりと決まっている」と小言をいわれる場面を思いだしてしまいました。
デイヴィッド・ドッドの注釈によると、チーノはカリフォルニア州サン・バーナーディーノ郡の町で、ここには刑務所、それも主として犯罪性精神異常者を収容するところがあるのだとか。また、カリフォルニアには四カ所のチェロキーがあり、さらに、アラバマ、アイオワ、カンザス、ノース・キャロライナ、テキサスにも同じ地名の土地があるそうです。
マンドリンの間奏をはさんで、ふたたびブリッジに入り、フォース・ヴァース、コーラスを繰り返してエンディングとなります。
◆ 悪魔と悪魔の友だちと地獄の天使 ◆◆
今日一日、悪魔のことを考えてみましたが、やはりよくわかりませんでした。20ドル貸してくれ、20ドルもっていくのが悪魔、というのは、なんとなくわかるような気がしてきたのですが、「なんとなく」の向こう側まではいけませんでした。
もちろん、「悪魔の友だちは俺の友だち」にいたっては、まったくわかりません。「悪魔に魂を売ったワルは俺の仲間」ぐらいのところでしょうかねえ。しかし、アップテンポで歌うと、この「Friend of the Devil is a friend of mine」というフレーズは、なかなかリズムがよくて、いっしょに歌いたくなるのもたしかです。
もうひとつ、デッドがバンドの発足当初からヘルズ・エンジェルに支持されてきたことも思いだしました(それがオルタモントでの殺人事件につながった)。地獄の天使と悪魔はなにか関係があるのかもしれません。
歌詞のことはそれくらいにして、以下、肝心のサウンドのことを。
◆ レッシュのグルーヴ ◆◆
デッドをご存知の方には説明の要がないのですが、この曲はAmerican Beautyという、多くの人が彼らの代表作と考えるアルバムに収録されました。このオリジナル・ヴァージョンと、後年のライヴ・ヴァージョンでは、はっぴいえんどの「朝」のオリジナルと、エレクトリックなライヴ・ヴァージョンぐらい大きな違いがあり、ほとんどべつの曲に聞こえます。
わたしは、スロウ・ダウンしたエレクトリック・ヴァージョンよりも、ブルー・グラス風のアップテンポなスタジオ盤のほうがずっとよいと思います。それは主として、ドラムのビル・クルツマンとベースのフィル・レッシュが、ともに冴えたプレイをし、協力して素晴らしいグルーヴをつくっているという理由によります。
レッシュははじめからグルーヴのいいプレイヤーでしたが、トップ・クラスのプレイヤーだと確信したのは、前作のWorkingman's DeadのCumberland Bluesのグルーヴを聴いてからのことです。得意技の高音部での装飾的プレイを封じ、シンプルなフレーズを繰り返すだけのこの曲でのプレイは、当然、グルーヴがすべてであり、レッシュは完璧なグルーヴをつくれることを証明しました。
たぶん、楽器自体がアレンビックのカスタム・ベースになったか、まだカスタムはできていないにしても、すくなくとも改造にとりかかったのだと感じます。それまでとはかなりトーンがちがい、以後、彼の生涯のトーンとなる、音階がハッキリとわかる、輪郭の明瞭なサウンドに変化しています。これで彼のスタイルは固まったのだと思います。
Friend of the Devilは、彼のもっとも得意とする、高いところでの装飾的かつメロディックなラインを中心としたプレイで、素晴らしいのひと言です。ブルー・グラス的にやっているこの曲のギターやマンドリンとは、故郷の異なるスタイルですが、この異質なものが自然に共存してしまうのが、デッドの世界です。
◆ クルツマンの代表作 ◆◆
以前にも書きましたが、ビル・クルツマンがいいドラマーのような気がしはじめたのはLive/DeadのElevenでのことです。Workingman's Deadからはスネアのチューニングが高くなり、ここからほんのしばらくのあいだだけ、彼はウルトラ・ドライなスネアをパシパシと小気味よく「しばく」ドラミングをつづけます。アルバムとしては、Workingman's Dead、American Beauty、Grateful Dead(通称Skull & Roses)、そしてボブ・ウィアのソロ・アルバムAceの4枚だけで、72年のヨーロッパ・ツアーでは、もうチューニングを下げはじめます。
ピッチが高く、スネア・ワイアを鳴らし、しかもミュートを使わないウルトラ・ドライなサウンドというのは、この時代の流行、主流ではないので(以上の形容をひっくり返したのが流行。ピッチは低め、スネア・ワイアを響かせない、ミュートを使う。この形容が変だと感じたあなた、正解です。スネア・ワイアを鳴らすからこそ「スネア・ドラム」という名前がつけられているのであり、ワイアを鳴らさないスネアは、スネアとは呼べないのです)、短期間しかつづかなかったのはやむをえないでしょう。
しかし、こういうスネアは60年代にはかなり聴くことができたものの、のちの時代には地上からすっかりかき消されてしまう運命にあるので、時代が下るにつれて、貴重品としての価値が相対的に上昇していき、わたしの心のなかでは、もっとも愛すべきドラミングの神棚へと祭り上げられていきました。
時代の流行から離れてみると、なおいっそう、この曲でのドラミングの素晴らしさが明瞭になります。こういう音がスネア・ドラムの本来のサウンドである、あとの音はみな間違い、といっていいすぎなら、「亜流」「俗流」であるといいたくなるほどです。
もちろん、素晴らしいのはサウンドばかりではありません。もともとタイムが素晴らしいプレイヤーですが、経験の蓄積によって「ホンモノのプレイヤー」になった、と感じるような、自信に満ちたプレイをこの曲では聴かせてくれます。ウルトラ・ドライのスネアをパシパシいわせる、ブリッジでの16分のパラディドルの気持ちいいこと、これこそがドラムを聴く喜びというものです。
デッドの大きな魅力のひとつだった、フィル・レッシュとビル・クルツマンが、ともに第一のピークにさしかかり、その力を見せつけたのが、このオリジナル盤Friend of the Devilなのです。
◆ 明日があるさ ◆◆
デッド・ヘッズはいろいろな意味で野球ファンにたとえられます。なによりも、ちょっと負けがこんだぐらいでは動じない点が野球ファンに似ています。なにしろ、セット・リストなんかつくったことのないバンドで、その日、どういう曲がプレイされるか、ヘッズはもちろん、彼ら自身も知らないのです。いや、だいたいのことは決めてからステージに上がると思うのですが、曲と曲を接続する役目を負っている長いインプロヴの最中に、予想しなかった曲にだれかが誘導すれば、それに合わせることもすくなくないらしいのです。
それでうまくいくこともあれば、人間のやることだから、当然、失敗することもあります。デッド・ヘッズでない堅気の人はご存知ないでしょうが、デッドのライヴを録音し、仲間と交換し、デッドの全ライヴ記録を保管することを生涯の目標とした、世にいう「テープ・ヘッズ」がその収集品を公開したサイトが無数にあり、気長に探せば、たぶん、デッドのまともなライヴはすべて聴くことができます(あなたの寿命がそれを許すほど十分に長ければ、という条件が付きますが)。
ときにはすごい日があります。いや、ほとんど負け試合だけれど、1イニングだけ大量得点、てな感じのケースのほうが多いのですが、それでも、ありがたいことに、野球とちがって、1イニング完璧なら、あとの8イニングはボロボロでかまわないのです。
こんな日もあります。「トラック1機材の修理」「トラック2Bertha」「トラック3ふたたび機材の修理」「トラック4チューニング」などと書いてあるのです。機材の修理以外のこと、すなわちプレイしているあいだも、ヴォーカル・マイクのハウリングに悩まされ、まともなものではありません。こういう日は、序盤の大量失点に最後まで祟られ、悲惨な結果になるはずです。ところがどっこい、デッドは後半、猛烈に追い上げ、結局、逆転サヨナラ勝ちしてしまうのです。この日の後半のいいこと、あなたに聴かせてあげたいほどです。
これが、デッドを世界一の売り上げを誇るロック・バンド、一大コングロマリットに成長させた秘密でしょう。なにが起こるかわからないから、ブック・チケット(ツアーの全試合、じゃなくて、すべてのコンサートを見られるチケット)を買い、仕事を休んで、アメリカ中、デッドについて歩く(そして、重装備の機材ですべてを録音する)、変わり者ばかりのデッド・ヘッズのなかの、さらなる変種を生んだのです。
ある人が書いていました。「今日はひどいボロ負けだった。でも、明日はいいゲームをしてくれるかもしれないから、また見に来るだろう」。だから、デッドは野球チームであり、デッド・ヘッズは野球ファンなのです。負け試合が五つや六つつづいたからなんだっていうんだ、長いシーズンではよくあることさ、なのです。
◆ 各種ヴァージョン ◆◆
作者のロバート・ハンターが「われわれが書いた曲のなかで、クラシックの位置にもっとも近いもの」というだけあって、デッドはFriend of the Devilを、長いあいだプレイしつづけています。したがって、テープ・ヘッズによるプライヴェート録音まで含めると、とてつもない数のヴァージョンが残されています。
今回はオフィシャル・リリースである80年のライヴ録音を含め、四種をくらべてみました。しかし、うーん、でした。オリジナルのようなテンポでやっているものはひとつもなく、みなちょっと、または、すごくスロウ・ダウンしているのです。そのなかでは、1974年9月18日、Parc des Expositionsというところでの録音が、オリジナルに近いテンポで、クルーズマンのスネアのピッチも高く、好ましい出来に思えます。これはもちろん、ウェブで聴けるものなので、ご興味がおありなら、検索してみてください。
あとは、時代の下った「ゆるすぎるデッド」になってからのものなので、ダレます。しかし、オリジナルを忘れ、これはこういう曲なのだと思って聴けば、正規リリースである80年のDead Set収録ヴァージョンも、あまり面白くないこの盤のなかでは、かなりいいほうの部類に入ると思うようになりました。
近年のフィル・レッシュのサイド・プロジェクト、フィル・レッシュ&フレンズによるヴァージョンは、アップテンポで、ブルー・グラス風味を残したものになっています。70年代終わりから、だれといわず、バンド全体がたがのゆるんだようになり、デッドのライヴはずぶずぶのプレイばかりになるのですが、レッシュも高音部でのメロディックなプレイをやめ、ふつうのベースになってしまいます。年をとったとしかいいようがないのですが、それでも、デッドのときより、このサイド・プロジェクトのほうが、彼らしいプレイをしていて、ホッとします。その気になれば、まだかつてのようなプレイができるのではないかと思わせてくれるのです。
ディランは、おそらく、デッドといっしょにツアーしたときに、この曲を聴き、気に入ってカヴァーしたのでしょう。正規盤にはなっていませんが、ブートで聴くことができます。ベースにしたのは、明らかに70年代後半以降のスロウ・ダウンしたアレンジで、それに、この十数年ずっとつづいている、ディランのだらっとしたスタイルのヴォーカルが載るのですから、出来はご想像に任せます。
重要なのは、同時代の曲をカヴァーすることのないディランが、この曲を取り上げたということです。こういうことが、ある楽曲をクラシックにするうえで大きな役割を果たすことになります。いや、わたしはディランを信奉しているわけではないのですが、世間はそういうことを基準にするものだからです。