★釜夏物語(ボクの糖質制限狂時代)★第19話★「漂流」

「糖質制限業界の創始者的存在」であった釜池豊秋先生。
釜池先生の「糖質憎み」は徹底しており、医者をご廃業後に南国の離島(沖縄県黒島)へ移住を決めた理由は、何と「田んぼ(お米=炭水化物=糖質+食物繊維)がない」からだと明かされている。
田んぼ(糖質を生み出す不自然なモノ)がないから「自然な」島なんだと先生自ら語っておられた。
釜池先生の「自然」とは「糖質ゼロ」という定義である。
た・だ・し。。。。で、ある。
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「田んぼがないから糖質セロの自然な島や!」では、決して済まされない事が分かるだろう。
釜池先生は講演会で自ら「食料品は石垣島から仕入れる。冷凍庫は必需や」とシレ~っと言っているように、黒島では他の住人の方と同じように「人間社会のインフラ、助け合い」の恩恵を受けて、島で生きていけるのである。
サツマイモの栽培、牛の畜産など、住人の皆さんの大変な苦難と努力の結果、今の美しく豊かな黒島があるわけなので、ペットの山羊を殺して勝手に浜辺で勝手に丸焼きにする釜池は、島の人にも迷惑をかけたり嫌われているのではないか、とんでもない輩である、と、断定して結論付けざるを得ない。
黒島であれ他の場所であれ、結局、人間社会や地域社会の恩恵を受けた中での「糖質ゼロ」とか、甘えているとしか言わざるを得ない。
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しょせん釜池先生は田んぼがない島と言ったって、人々の営みや社会のインフラの恩恵を受けてヌクヌクと「自然な島で糖質ゼロや」とドヤっているだけだというのが、私の個人的な感想である。
一方で、意図せず思いもかけず望んでもいないのに「人間社会に依存できない糖質ゼロ」の環境に強制的に追い込まれて苦悩した人々の歴史もあるのだ。
●「漂流」(新潮文庫)・・・著者;吉村昭
(スリム鳴造;蔵書)
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江戸・天明年間、シケに遭って黒潮に乗ってしまった男たちは、不気味な沈黙をたもつ絶海の火山島に漂着した。

水も湧かず、生活の手段とてない無人の島で、仲間の男たちは次次と倒れて行ったが、土佐の船乗り長平はただひとり生き残って、12年に及ぶ苦闘の末、ついに生還する。

その生存の秘密と、壮絶な生きざまを巨細に描いて圧倒的感動を呼ぶ、長編ドキュメンタリー小説。

【出典;新潮社 漂流 より、抜粋引用させていただきました】
「漂流」は、史実に基づいた検証を元に、数多くのノンフィクション歴史小説を著作されている吉村昭先生の作品である。
本書は、江戸時代に土佐の船乗りが暴風により黒潮に流されて、絶海の孤島である「鳥島」で生活せざるを得なくなった史実に基づいた小説である。
無人だし南海なので、もちろん「田んぼ」はないし「畑」もない。
食料は渡り鳥(アホウドリ)と海岸で摂れるわずかな海草や貝のみ。
主人公である土佐の船乗り長平が絶海の孤島「鳥島」で生き残って、12年後に生還するという内容である。
糖質ゼロ」と「穀物ゼロ」の環境で人々はどうなるのか?
そして、人々の助け合い、協力が、人生においてどんなに大切なことなのか?
長平ものがたり
【動画出典; 香南ケーブルテレビ より、共有埋込コードにてリンクさせていただきました】
【土佐の船乗り長平、鳥島漂流記】
●23歳、無人島鳥島へ他の3名と共に漂着。食べ物は生の鶏肉・貝類・海草、および干し肉のみ。
●25歳、偏った食生活による栄養不足と思われる病状で長平以外全員死亡。
●26歳、大阪船の11名が漂着、加熱調理での食事が可能となる。
●28歳、日向船の6名が漂着、鍋釜・大工道具が揃い、漂着物(木材、廃船残骸)など集めて船建造を決意。
●35歳、船を建造し生き残った14名で無人島を脱出、青ヶ島、八丈島に到着。幕府の御用船で江戸へ送られた。
●36歳、生まれ故郷の土佐へ帰還。
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【画像出典;nippon.com 鳥島 : 伊豆諸島と小笠原諸島の中間に位置する東京都の無人島 より、転載させていただきました。】
1785年2月の鳥島上陸時には長平含めて4名いたが、2年以内に3名が相次いで死亡。
以後長平は無人島での単独生活を強いられる。
食料はアホウドリの肉と卵、それに少量の海産物(貝類、海草など)のみ。
米や麦などの穀物はないので、正に釜池先生の理想郷である「糖質ゼロ」の実践だ。
ただし、長平は自ら願ってそのような(肉食い放題)環境に身を置いたわけではなく、遭難によって強制的に絶海の孤島に流れ着いたのだ。
火打石がなかったため、アホウドリの肉は生で食した。
またアホウドリの肉を乾燥して保存し、これをアホウドリの不在期間(春の巣立ちから秋の営巣まで)の主な栄養源とした。
島には川も湧き水もないため、雨水をアホウドリの卵の殻に貯めたりして水を確保した。
長平の漂着から3年後の1788年1月29日に大坂船の11人が鳥島に漂着、さらに1790年1月末頃に日向国の船の6人が漂着した。
この時点で鳥島の無人島生活者は長平を含めて18名となった。
18名のうち、1789年から1793年の間に4名が死亡した。
大阪船の人々が漂着以降は火打石による加熱調理が可能となった。
鍋釜・大工道具も揃い、長平らは、船を作って鳥島を出ることを1792年頃に決意した。
鍛冶や船大工の経験者がおり、船から回収した工具やかつての漂流者が残した船釘、自作のふいごで古い船釘や錨を溶かして製造した大工道具を造船に用いた。
船の素材には流木を、帆には衣類を用いた。
生存していた漂着者14名全員が船に乗り込み、1797年6月8日に鳥島を出港した。
数日の航海で青ヶ島を経て、無事八丈島に辿り着いた。
長平にとっては12年4ヶ月ぶりの社会復帰であった。
一行はこの地で伊豆の国代官所(幕府直轄)の調べを受けた後、幕府の御用船で江戸に送られた。
江戸での本格的な調べ(勘定奉行所および土佐藩邸)が済むと一行は解散し、それぞれ帰路に散った。
長平は1798年1月19日に土佐へ帰還したのである。
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【画像出典;フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 鳥島 (八丈支庁) より、転載させていただきました】
八丈島到着を社会復帰の日とすると、長平の無人島生活すなわち「強制的な糖質ゼロの日々」は12年4ヶ月となる。
その長い日々を生き延びることができた要因は色々あるだろう。
栄養的には何といっても「無尽蔵に手に入る動物性たんぱく質=アホウドリ」の存在だろう。
その他、島で手に入る食料は、海藻、貝類、わずかな魚のみ。
島がアホウドリの繁殖地でなかったら、長平ら漂流者は1年も経たないうちに全員死亡しただろう。
毎日毎日の殺生の日々に、長平らは南無阿弥陀仏を唱えながら、ほぼ無抵抗のアホウドリを殺めていったのだ。
つまり、漂流者たちの食生活は「狩猟」では、ない。
無抵抗なアホウドリを棒きれで叩き殺すという「採集生活」であったことに注目すべきだろう。
しかし、それだけでは12年以上も生存できるわけがない。
実際、一緒に鳥島に流れ着いた土佐の仲間他3名は、2年以内に全員亡くなっている。
長平にとって幸いだったのは、独り生活もそろそろ限界のギリギリのタイミングで、大阪船、その後日向船の仲間ができて、火も使用できるようになり、「船を建造して日本へ帰る」と言う「生きる希望」と共に「助け合い協力し合う社会生活」を営むことができたことこそが、生還できた最大の要因であろう。
ところで、長平たちの漂流から遡ること65年前の1719年に遭難し翌年鳥島に遭難漂着して、その後上陸者20名の内3名が生き残って、何と「20年後」に帰還したケースがあったという。
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【画像出典;「東北大学東北アジア研究センター叢書 第73号 江戸時代の漂流記と漂流民 」より、スクショさせていただきました】
江戸時代中期の享保4年(1719年)、遠州荒井の筒山五兵衛船『鹿丸』が銚子沖で嵐にあい遭難。
今の鳥島に漂着しました。
乗組員12名のうち9名が死亡、残る3名が都合21年を生き抜いて、元文4年(1739年)に救出されました。
【出典;アーツカウンシルしずおか(公益財団法人静岡県文化財団内) 無人島漂流者の碑 より、抜粋引用させていただきました】
鳥島漂着後、3年ほどは12名全員が生存していたようですが、それから10年の間に次々と亡くなったと生き延びた甚八は語っています。
死因は衰弱死か食べ物が合わなかったことが理由だったか、体が腫れて亡くなったようです。  
また衣類については、主食としていた「大鳥」の皮と羽毛を転用していたと述べています。
この「大鳥」とはアホウドリを指します。  

およそ20年後の元文4年(1739)、甚八・仁三郎・平三郎の3名が生き延びていた鳥島に、江戸堀江町の宮本善八船(船頭富蔵ら17名)が漂着しました。  

新たに漂着した富蔵らは、甚八らの姿を見て仰天し逃げ出してしまいます。
それもそのはず。
20年間、髪も切らず髭も剃っておらず、常に日に当たっていたことから肌も赤黒く、さらに鳥の皮を着ており、とても人には見えない風貌でした。  
幸いにも、富蔵らの船には小船があり、甚八ら3名と富蔵ら17名の計20名はその小船に乗って、同年5月1日に八丈島へ着くことができました。
【出典;国立公文書館 漂流ものがたり 無人島「鳥島」への漂着 ① より、抜粋引用させていただきました】

長平の漂流事案は、土佐船・大阪船・日向船の合計20名の内、14名が漂流者たち自らの船建造により「自力」で帰還、漂流生活期間は7年~12年であった。
それに対して遠州船は合計12名のうち、3名が新たに漂着した船に救助され「他力」で生還、漂流生活期間は20年であった。
どちらの漂流者たちが、無人島で充実した人間らしい生活を送っていたのか、これは想像に過ぎないが、恐らく「船建造」という「希望」を持っていきてこられた長平たちの事案であろう。
一方で遠州船の人たちは、結果としては新たに島に流れ着いた「自走できる船と乗組員たち」に助けられるまでは、20年間、絶望的な日々を過ごしていたのではないか・・・・・・
実際、亡くなった9名のうち3名は自殺だったという・・・・・
た・だ・し。。。。で、ある。
別の側面から見れば、主にアホウドリの肉のみが食生活という鳥島の漂流生活で、遠州船の3名が「20年間も生き延びることができた」事は、奇跡と言うか驚きに値するだろう。
そこには、やはり長平たちの漂流とは違ったアナザー・ストーリーがあったのだ!!
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享保五年一月二十六日、島山(鳥島)を発見、元船(本船)を寄せ、伝馬船に手道具、鍋釜などを移して上陸した。
水や人家を探したが見当たらず。
折からの時化(しけ)で元船、伝馬船とも破損、島に居住することになる。
洞穴をねぐらとする。

翌年冬、乗捨船(のりすてぶね)(難破船)漂着、積荷と思われる米二、三十俵を得る。
俵のままとっておいたうち一俵が籾米(もみごめ)であったらしく、翌春、発芽しているのを見つけ、以後これを蒔いて収穫し、病人に食べさせる。
【出典;日本財団図書館 無人島漂流者の話 より、抜粋引用させていただきました】
江戸時代、表浜名湖は新居町からの漂流者が鳥島で20年も生き延びた奇跡の贈り物の正体とは、「お米」でした。
サバイバル生活を始めて暫くして、無人船が鳥島に漂着しました。
中にはなんと、お米が60俵も積まれていたというのです。
正に神様からの助け舟でした。
しかもその中には籾米(もみごめ)が1俵混じっていました。
ただ今日生きる為にその場にあるものを食べるーーそれしか出来なかった事が、籾米を撒くことで食べ物を自分で育てられるようになったのです。
土地が肥沃なわけでもなく、水も満足に手に入らない中での稲作は決して容易ではありませんが、それでも毎年何俵かのお米を収穫できるようになったのでした。
それでも厳しいサバイバルだった事には変わりなく、12人中生きのこったのはたった3名です。
つまり私達の故郷である遠州地方出身の9人が、今尚鳥島で眠っています。
鳥島に私達が赴く事で、遠州の懐かしさを届けてあげたいですね。
【出典;2020はままつ少年の船  遠州と鳥島は繋がっている 後編 より、抜粋引用させていただきました】

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そう。
遠州船遭難者のケースでは、何と米俵を乗せた難破船が島に流れ着き、どうやら「米の栽培、収獲」が可能であったようだ。
それは絶海の孤島に流れ着いた絶望的な日々を過ごす彼らにとって、どんなに幸運であったことだろう。
栽培・収獲・保存・・・・
それがどんなに日常に潤いを与えたであろうことは想像に難くないであろう。
「一生涯、島で暮らさなければならない」という絶望感とは裏腹に、仲間も減りながらも健在だったし、たった僅かな収穫だったとしても米と言う「穀物」があったからこそ、残り3名であっても20年間も生き延びることができたんだといっても、そう間違ってはおるまい。
一方の長平は、遭難中に米を食うことができたのは、たった1回のみ。
大阪船が漂着したときに、その乗組員に分けてもらった残り僅かであった握り飯であった・・・・・・
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「米はいつ頃までありました?」
儀三郎が訊ねた。

「この島にたどり着いた時には米もなく それゆえ 3年前から口にしたこともありません」
長平は寂しそうに答えた。
「それならばこれを食べなさい」
儀三郎は腰に結びつけた包みを解くと中から握り飯を取り出した。

長平は 放心したような目で儀三郎の差し出した握り飯を見つめた。
3年の間、何度も夢に見た米飯が目の前にある。
光沢を帯びた飯粒がひどく美しいものに感じられた。

「さ、食ってください」
儀三郎が言った。
長平は無言で押しいただくと、それを見つめながら低い声で念仏を唱え始めた。
儀三郎たちに会えたことも、さらに握り飯を口にできるのも全て神仏のおかげだと思った。
儀三郎たちは長平の姿を見つめていた。
念仏を唱える長平に、島での孤独な生活がいかに厳しいものであるかを感じ取った。
長平は儀三郎に深々と頭を下げると、握り飯を口に入れ咀嚼し始めた。
ほのかな甘みを持つ 飯粒がこの世のものとも思われる美味なものに感じられた。

しかし、半分ほど食べた時、不意に喉元に突き上げるものがあり、嘔吐してしまった。
3年間、米飯を口にしなかった彼の消化器は、それを受け入れることができなくなっていたのだ。
長平は急に肩を震わせて泣き始めた。

夢にまで見た米飯を口にしたが、胃はそれを受け付けてくれない。
島に漂着してから3年間、飢えに怯えながら大鳥を殺し、貝を拾い魚を釣ってきた。
体が、いつの間にかそれらの食物にもなれ、久しぶりに口にした米飯を異物のように吐き出してしまった。
俺は、もはや人間ではなくなっているのだろうか、と、長平は胸の中でつぶやいた。
儀三郎たちは、長平にうるんだ眼を向けていた。
【出典;スリム鳴造蔵書「漂流(吉村昭)新潮文庫」より、抜粋引用】
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今から40年くらい前、大学時代に私はこの本を購入し、上記引用の握り飯を食べるシーンでは涙したことは言うまでもないし、99.9999999999%の一般読者諸兄も同じ感想をもつだろう。
「ああ、麦や米があれば、せめて芋が食えたら、どんなにか無人島生活が安定したろうに・・・」と。
長平が米を受け付けない体になって自ら悲観する当シーンは、当物語のハイライトと言ってもよく、現在の私も主人公に大いに同情し、感涙するのである。
と・こ・ろ・が。。。。。だ!!!
この特集記事のサブタイトルは「ボクの糖質制限狂時代」である。
この回では、「自ら望まず強制的に糖質ゼロの生活を強いられた江戸時代の漂流者たちの話」を書いた。
糖尿病発症して約半年間、狂気&狭気&凶気&侠気and叫気のごとく糖質制限に夢中になっていたときに、私はこの書籍「漂流」を読んだ時の感想は違っていた!!!
「何だよ、米なんか食えなくても生き残れたじゃん。アホウドリ食い放題の糖質ゼロだったから長平はラッキーだったんだ」・・・と。
そう、糖尿病発症当時は「確証バイアス」がかかり、と、いうか、それどころか私は自ら進んで糖質制限にのめり込んでいったのである。
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糖質制限の
「創始者;釜池豊秋先生」
「推進者;夏井睦先生」
      ↓
「糖質は食っちゃアカンのや!」
「炭水化物が人類を滅ぼすんだ!」
      ↑
この釜池夏井両先生の主張が「正しい」or「間違っている」とは、「狂気」の時期には考えなかった。
私はとにかく、「糖質制限」と名が付くものなら何でも信じて実践してみようと決めたのであった。
糖尿病発症直後、糖質制限を実践するにあたって毎日何時間も関連動画を聴講させて頂いた中で「興味深い動画作品の”出演者”として最も参考にさせて頂き感謝している先生」こそが、この2名様「釜夏先生」なのである。
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「炭水化物が人類を滅ぼす。糖質制限は驚異のダイエット法だ」などの主張は、正直言って人類史上最低最悪レベルのアタマの悪い戯言である。
しかし、当特集記事で語りたい問題の本質はそこではない。
糖質制限のメリット・デメリット以前に、「とことん糖質や炭水化物を悪者に仕立てた凄まじい煽りのエネルギー」は「多くの人々の人生を変えた」という話である。
つまり、人生を変えたり生活習慣を見直すためには、「極論」や「偏り」や「思い込み」が必要な人が多いのではないか?
釜池先生や夏井先生の著作やご発言に衝撃や影響を受けて、「糖質制限」というフレーズを通じて、オノレの人生を、健康を、見直して立て直していく起爆剤となった人も無数にいるのだ。

その中の一人に、間違いなく私も存在する。

当特集「★釜夏物語(ボクの糖質制限狂時代)★」は、賛成反対かかわらず”糖質制限”を通じて・・・・

「人生や健康について、一度立ち止まって考えなおすきっかけを作ってくれた」
「賛成反対含めて色々な広い考えを持つ事ができた、イマジネーションを掻き立てられた」

という意味での、糖質制限第一人者の釜池先生そして推進者の夏井先生について愛を込めて記事を書き進めていく物語である。
【参照文献(サイト)】

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 野村長平

●フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 鳥島 (八丈支庁) 


アーツカウンシルしずおか(公益財団法人静岡県文化財団内) 無人島漂流者の碑 
●公益財団法人 山階鳥類研究所 「無人島長平」とアホウドリ

●国立公文書館 漂流ものがたり 無人島「鳥島」への漂着 ① 

●2020はままつ少年の船  遠州と鳥島は繋がっている 後編 

●東北大学東北アジア研究センター叢書 第73号 江戸時代の漂流記と漂流民 (PDF)



次回★第20話★では、江戸時代多くの漂流者たちが流れ着き、貴重なたんぱく質供給源となった「アホウドリ」と「鳥島」について、その後の歴史や現在の様子を見ていきながら、「人間社会と狂気の糖質制限推進派センセ方の関係」について、書き連ねていくつもりであります。

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