伊勢亀山城跡逍遥記。 その3 <二ノ丸帯曲輪~石坂門跡>
「その2」のつづきです。
伊勢亀山城本丸の北西にある二ノ丸帯曲輪跡に向かいます。

現在、かつての二ノ丸跡には小学校や市役所などがあって改変されてしまっていますが、この二ノ丸北側にあたる帯曲輪だけが残されているようです。

その説明板。

こっちには二ノ丸の説明板が。

このあたりは二ノ丸の北端にあたります。
この一段下に帯曲輪跡があります。

二ノ丸御殿の礎石だそうです。
説明板によると、小学校の工事前の発掘調査で見つかったそうです。

二ノ丸から帯曲輪に降りる門跡です。

埋門の説明板。
半分地下にもぐるような構造なので、埋門と呼びます。
かつて亀山城にあった6か所の帯曲輪に降りる門は、すべて埋門でした。

二ノ丸北埋門を降ります。

下から見た二ノ丸北埋門。
ここを訪れたのは7月16日。
夏真っ盛りで雑草が生い茂っていてわかりづらいですが、平成15年(2003年)の発掘調査で、通路や石垣が発掘されたそうです。
幅1.8mの通路で、埋門の上には二ノ丸北櫓がある櫓門だったようです。

そして二ノ丸北帯曲輪。

東西43m、南北6.5mの細長い曲輪です。
文字通り帯曲輪ですね。
帯曲輪には建物はなく、石を組んだ溝がめぐらされていたことが発掘調査でわかったそうです。
また、石を組んだ大きな水ためが作られていたようで、花畑などに水やりをするための水ためだったと考えられているようです。
戦うための城ではなく、大名の優雅な暮らしがうかがえますね。

白漆喰の土塀は、もちろん復元です。

帯曲輪を後にして、次は本丸北側の池に向かいます。

公園池です。
かつての内堀跡の名残だそうです。

天正18年(1590年)に伊勢に入った岡本良勝(宗憲)によって築かれた伊勢亀山城でしたが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで良勝は西軍に与し、滅亡しました。
その後、江戸時代に入って、伊勢亀山城の城主は固定されず、関氏、松平(奥平)氏、三宅氏と次々に代わっていきます。

三宅康盛が城主時代の寛永9年(1632年)、とんでもない事件が起きます。
幕府は堀尾忠晴に丹波亀山城の修築命令を出したのですが、忠晴は丹波亀山城と伊勢亀山城を取り違え、石垣の修復に邪魔だからと、天守を解体してしまいます。
なんちゅうことするねん!!!ですよね!

間違いが判明したあとも天守は再建されませんでした。
その理由は、幕府が再建を許さなかったとも、幕府に気遣って再建しなかったともいわれますが、そもそも天守の解体自体が幕府の陰謀だったのではないかとの説もあります。
たしかに、そんな間違いするか~???って気もしますよね。
陰謀、あったかも!

池から南を見上げると、最初に見た二ノ丸帯曲輪の土塀が見えます。

寛永13年(1636年)、本多俊次が城主となると、伊勢亀山城の大改修に着手。
現存する本丸多門櫓もそのときに建てられました。
約200mにわたって築かれた白亜の土塀があり、「粉堞城」とも呼ばれていたそうです。
「粉堞」とは、難しい言葉ですが、白い姫垣を意味するそうです。
まさに、この復元土塀のような感じだったのでしょうか?

その後も城主は入れ替わりが激しく落ち着きませんでしたが、延享元年(1744年)、城主として石川総慶が入り、以後は石川家が明治維新まで11代続いて城主を務めます。

再び「その1」で見た本丸南側の中学校のグラウンド付近にやってきました。
グラウンドの東側に、往時の水堀を忍ばせる池があります。
かつてこのあたりに石坂門という枡形門があったそうです。

その門跡に、「石井兄弟亀山敵討遺跡」と刻まれた石碑があります。
元禄14年(1701年)5月9日に石井源蔵・半蔵兄弟が父の仇、赤堀水之助を討ち取ったことを記念する碑だそう。
この事件は、ここにあった石坂門外で起きました。

当時、この敵討ちは『元禄曽我兄弟』とよばれ、翌年に起きた赤穂浪士の討ち入りと並び称されたそうです。

その説明板。

明治に入ると、廃城令によってほとんどの建物が取り壊され、現在は多門櫓と石垣、堀の一部が残されるだけとなっています。
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by sakanoueno-kumo | 2024-11-27 16:48 | 三重の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)