紅葉が美しい摂津池田城逍遥
もうすぐ紅葉が見ごろの季節ですね。
そこで、今回は約2年前の令和4年(2022年)11月27日に訪れた紅葉が美しい摂津池田城です。
池田城は室町時代から戦国時代にかけて、旧豊島郡(現池田、豊中、箕面市周辺)を支配していた国人・池田氏の居城でした。
現在、城跡は池田城跡公園として整備され、市民憩いの場となっています。
紅葉が美しい。
公園案内板
東側の模擬大手門から公園内に入ります。
模擬大手門の東側にはかつての空堀があり、木橋が架かっています。
木橋から見下ろした空堀跡。
下は遊歩道になっているようですね。
あとで行ってみましょう。
模擬大手門横にある石碑。
模擬大手門です。
内側から見た模擬大手門。
模擬大手門前に、何かのモニュメントが。
石碑には「てるてる坊主の照子さん なかにし礼」とあります。
なかにし礼さんが池田市出身の彼の奥さんである石田ゆりさんの家族をモデルに書いた小説で、NHKの朝ドラにもなっていましたね。
たしか主役はまだ無名だったころの石原さとみさんだったはず。
池田城がいつ築かれたのかは、今のところそれを確認できる史料は見つかっていません。
池田城の名が登場する最古の史料としては、建武3年/延元元年(1336年)の「平国茂軍忠状」のなかで、北朝方の芥河岡国茂の軍勢が、「池田城にて数日送」って夜詰めをしたという記述があるそうです。
この記述から、14世紀前半に池田城が存在していたのではないかと言われていますが、確証はありません。
池田氏は南北朝時代から力をつけはじめ、14世紀半ばには勝尾寺の檀家衆の土豪三十余人のなかの一人に挙げられています。
また、そのころに摂津国守護の赤松氏の家臣になっていたことも確認できます。
その後、どのような過程で成長を遂げたかは不明ですが、80年ほどの間に土豪30数人から10人程度に淘汰され、池田氏はその中に残っていることが、「勝尾寺文書」に記されているそうです。
おそらく、その頃には国人となり、この辺りを支配の拠点として館を構えていたと思われます。
15世紀前半には、この地に池田氏の館が築かれたのではないかと推定されます。
応仁元年(1467年)に始まった応仁の乱のとき、幕府の有力者で摂津国守護の細川氏の家来になっていること、文明元年(1469年)の史料に池田城という名が登場していることなどが、この推定の根拠となっています。
天守はいうまでもなく模擬天守です。
実際には、池田城にどのような建物があったかはわかっていません。
時代は下って永禄11年(1568年)、織田信長の摂津入国により池田城は落城。
当時の城主・池田勝正は信長の家臣に組込まれました。
勝正は信長に摂津三守護の1人に任命され、金ヶ崎の退き口では殿(しんがり)を務めるなど活躍しましたが、元亀元年(1570年)に家中の反織田派が織田派の池田四人衆のうち2人を殺害し、勝正を追放します。
その勝正追放を主導したのが、勝正の家臣だった荒木村重だったんですね。
勝正追放に至る村重のエピソードは、昨年、直木賞に選ばれた米澤穂信さんの小説『黒牢城』で少し語られていましたね。
その後、村重は池田を支配し、残る摂津三守護の和田惟政、伊丹親興を滅ぼして茨木城と高槻城を手中に収め、さらに、敵対していた信長に取り入って室町幕府滅亡に功を挙げ、摂津守に任じられます。
このとき池田勝正の弟・池田知正は将軍・足利義昭に就いたため没落し、池田家を乗っ取った村重の家臣になりました。
その後、伊丹氏を滅ぼして伊丹城を手に入れた村重は、そこを有岡城と改名して居を移したため、池田城は廃城になったといわれています。
天正6年(1578年)、村重が信長に反旗を翻すと、信長は村重の配下にあった高槻城、茨木城を無血開城させ、『信長公記』によると「古池田」に陣を布いたとされています。
この「古池田」、すなわち、ここ池田城のことと思われます。
その後、長い有岡城の戦いを経て、村重が没落したことは周知のところですね。
池田城は有岡城が落城した翌年の天正8年(1580年)、信長の命により再び廃城となりました。
その後、池田氏もどうなったかは定かではありません。
せっかくなので、模擬天守のなかも見てみましょう。
なかには、池田城の説明や写真などが展示されています。
2階に上がりましょう。
模擬天守2階です。
2階か見下ろした城跡公園。
360度眺望が広がります。
公園内には、発掘調査に基づいた遺構が少しだけ復元展示されています。
こちらは排水溝のようです。
こちらは「枯山水」とあります。
庭園跡のようですね。
こちらは井戸跡。
「土塁」とありますが・・・。
石積みは近年のものでしょうね。
そして、こちらが南東虎口跡。
外桝形になっていたのかな?
桝形側から見た城門。
向こうに模擬天守が見えますね。
こちらは西門。
外側から見た西門です。
そして北門。
北門から外に出て、東側の堀底にやってきました。
向こうに見える木橋が、最初に渡った模擬大手門につながる木橋です。
堀底ウォーク!
高い!
この空堀は、永禄11年(1568年)に織田信長の攻撃によって落城したあとに掘られたものと考えられているようです。
堀底を歩いて南側にやってきました。
ここを上がると南門につながります。
公園内に戻って、しばし紅葉狩り。
この日の戦利品。
最後に御城印を載せます。
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by sakanoueno-kumo | 2024-11-18 13:43 | 大阪の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)