どうする家康 第47話「乱世の亡霊」 ~つかの間の和睦~ : 坂の上のサインボード
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どうする家康 第47話「乱世の亡霊」 ~つかの間の和睦~

どうする家康 第47話「乱世の亡霊」 ~つかの間の和睦~_e0158128_19022557.jpg 徳川方の砲撃に恐れおののいた淀殿は、一転して和議の申し出に応じます。そして、徳川、豊臣両者による和議の話し合いが行われたのは、慶長19年(1614年)1218日と19日の2日間。『大坂冬陣記』によると、徳川方の交渉役は徳川家康の信頼厚い側室・阿茶局と、この頃、父の本多正信に代わって家康付きになっていた本多正純で、豊臣方の使者に抜擢されたのは、淀殿の実妹・常高院(お初)でした。常高院は淀殿の妹であるとともに、徳川秀忠の正室・お江の実姉でもあり、中立的な立場といえ(実際には、常高院の子である京極忠高は徳川方に与していたため、中立ではありませんでしたが)、交渉が行われたのも、京極家の陣所でした。戦後の交渉役に武士以外の僧侶や商人が抜擢されることは珍しくなく、女性が事に当たったという例もなくはなかったようですが、大坂冬の陣のような、動員兵力が桁外れに大きな合戦の和睦交渉で、双方ともに女性が使者に指名されたという例は、おそらく日本史上で初めてのことだったのではないでしょうか。


同じく『大坂冬陣記』によると、豊臣方の示した和議の条件は、

一、本丸を残して二の丸、三の丸を破却し、外堀を埋めること。

 一、淀殿を人質としない替わりに大野治長、織田有楽斎より人質を出すこと。

 とあり、これに対して徳川方の条件は、

 一、秀頼の身の安全と本領の安堵。

 一、大坂城中諸士についての不問。


 というもので、これを約すことで和議は成立しました。一般に、家康が豊臣方を騙して堀を埋め立てたというイメージがありますが、実は、この堀の埋め立ては豊臣方から提示したものなんですね。この城の破却(城割)という条件は、古来より和睦条件において行われてきた方法でした。しかし、大抵の場合は堀の一部を埋めたり、土塁の角を崩すといった儀礼的なものだったといいます。つまり、これ以上戦う意志はありませんという意思表示のためのジェスチャーだったわけです。


どうする家康 第47話「乱世の亡霊」 ~つかの間の和睦~_e0158128_20450078.jpgところが、家康はこれを機に徹底的な破壊を実行します。約定では、城の破却と堀の埋め立ては二の丸が豊臣家、三の丸と外堀は徳川家の持ち分と決められていたにも関わらず、徳川方は20万の軍勢を使ってまたたく間にすべての堀を一斉に埋め立て、大坂城の防御力を一気に削いでしまいました。最初から家康の狙いはこれだったんですね。家康にしてみれば、20万の兵を持ってしても大坂城を落とすのは容易ではなく、豊臣家の財力を考えれば、2年や3年の籠城戦は可能だろう。その間、この度の真田丸の戦いのように、味方の兵力の被害も多く予想され、さらには、家康自身の寿命だって尽きるかもしれない。そう考えると、一刻も早く決着をつけたい。そのためには、大坂城の防御力を奪い、城の外に引き出して家康の得意な野戦に持ち込みたかったわけです。いうまでもなく、家康ははじめから和睦する気などさらさらなかったんですね。その家康の目論見にまんまと掛かった豊臣方。秀頼も淀殿も、暗愚だったとはいいませんが、家康の政治力の前では、赤子同然だったといえるでしょう。


 どうする家康 第47話「乱世の亡霊」 ~つかの間の和睦~_e0158128_22033305.jpgかくして裸城となった大坂城内には、真田信繁をはじめ牢人たちがなおも残っていました。彼らの目的は、新たな仕官を求めてきたものや、最期の一花を咲かせるためにきたもの、死に場所を求めてきたものなど様々でしたが、いずれの者にとっても、この突然の和議成立は納得できるものではありませんでした。そして、そんな牢人たちの存在が、家康が再び戦いに持ち込むための格好の材料になっていくんですね。その後も大坂方には和睦成立以前より牢人が増え、血気盛んな牢人の一部は大坂城外に出て乱暴狼藉を繰り返します。やはり、所詮は寄せ集めの烏合の衆、大坂城内は完全に統制を欠いていました。そして315日、それら豊臣方の不穏な動きを伝える報が京都所司代の板倉勝重より家康の元に届くと、家康は牢人の追放か豊臣家の移封を大坂方に要求します。しかし、大坂方はそのどちらも飲むことはできず、家康も、それをわかっての無理難題だったといえるでしょう。かくして、豊臣家と徳川家は再び戦うことになります。というより、家康にそう仕向けられたといったほうが正しいかもしれません。和議成立が慶長19年(1614年)1220日、再び戦闘が開始されるのが慶長20年(1615年)426日。結果的にわずか4か月の和睦だったわけです。もっとも、豊臣方においては、かつての天下無双の大坂城の姿はどこにもなく、防御力の一切を削がれた大坂城では、万に一つの勝ち目もないことは、火を見るよりも明らかでした。


ドラマでは、家康が淀殿に書状を送り、秀頼を生かすよう諭していましたが、わたしは、家康は初めから秀頼を生かすつもりはなかったと思いますね。『吾妻鏡』を熟読していたという家康。源頼朝義経を情に絆されて助命したことで平家滅亡につながったという平清盛の二の轍を踏まないよう、何がなんでも秀頼を亡き者にするつもりだったんじゃないかと。まあ、この辺はあくまで想像するしかないですけどね。


どうする家康 第47話「乱世の亡霊」 ~つかの間の和睦~_e0158128_18065601.jpgそれにしても、今回の秀頼。今までになくカッコいいですね。勝てるはずのない戦を前にして覚醒するというところが、なんとも切ない。今回のドラマを観てふと思ったのは、小牧・長久手の戦い後の家康のおかれた立場と、このときの秀頼の立場がよく似ているということ。長久手の戦いで勝利しながらも講和に持ち込まれ、その後、秀吉から上洛して臣従することを求められるも、長久手の戦いに実質勝っていたことで家臣たちは血気盛んとなり、賢明な家康は今度秀吉と戦ったら負けるとわかっていながら、秀吉と家臣たちの板挟みになっていました。今回の秀頼も、おそらく今度戦ったら確実に負けるということはわかっていたでしょう。しかし、血気にはやる牢人たちを抑えることは出来なかった。あのときの家康と今回の秀頼の違いは、身を犠牲にして戦を止めてくれた石川数正のような家臣がいなかったこと。そこが秀頼の悲しさですね。


 千姫の覚悟のシーンも切なかったですね。やはり、戦国の世の女性の悲しさは、こういう描き方でなければ。何で瀬名はあんな描き方になったのか・・・って、また話がそこに行っちゃいそうなので、このへんで。次回、いよいよ最終回。



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by sakanoueno-kumo | 2023-12-11 19:07 | どうする家康 | Trackback | Comments(0)

 

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