蒲生氏郷が築いた伊勢松坂城を歩く。 その2 <表門、裏門、二ノ丸、隠居丸>
「その1」のつづきです。
松坂城外周を歩いて、再び表門跡に戻ってきました。
表門です。
大手門ではありません。
古地図の縄張り図によると、大手門はこの北西の水堀沿いにあったようですが、今は堀も門も都市化とともになくなってしまっています。
表門も大きな桝形虎口となっています。
桝形内にある案内板。
案内図を拡大。
これは、現在の松坂城跡の図ですね。
表門を直角に曲がると、正面に本丸下段の高石垣がドーンとそびえます。
両側の石垣の上に、瓦葺2階建の櫓門があったそうです。
その両側の櫓門台石垣です。
高石垣前に設置された石碑と説明板。
石碑には、「蒲生氏郷公開府 松阪城跡」と刻まれています。
ここでは「坂」ではなく「阪」の字が使われていますね。
「その1」で説明したとおり、正しくは「坂」だと思いますので、当ブログでは「松坂城」で統一します。
高石垣に向かって左右どちらにも進めますが、左側に進んで二ノ丸広場に向かいます。
本丸下段の高石垣。
二ノ丸広場です。
かつてここに徳川陣屋(二ノ丸御殿)がありました。
江戸時代中期以降、松坂藩は消滅し、紀州徳川家の所領となっていました。
寛政6年(1794年)に築かれたという二ノ丸御殿は、明治維新まで紀州藩領経営の拠点となりますが、明治10年(1877年)に失火によって焼失してしまったそうです。
売店の向こうに見える石垣の上に、本丸下段の月見櫓がありました。
二ノ丸広場からの南側眺望。
御城番屋敷跡が見えます。
あとであそこも行きます。
蒲生氏郷ののぼりが立ち並びます。
松坂城は近江国日野城よりここへ移ってきた蒲生氏郷が築いた城です。
二ノ丸南西の櫓台らしき場所があります。
雁木を上ってみましょう。
石垣台上です。
ここは南側裏門跡の高石垣の上。
おそらくここにも櫓があったのでしょうね。
奥に見える石碑は、幕末・明治期の漢学者・亀井改堂の顕彰碑だそうです。
高石垣の出隅石垣。
怖いのでこれ以上近づけません。
裏門を降りてみましょう。
裏門は表門以上に大きな桝形門です。
写真じゃ伝わりづらいですね。
表門同様、ここにも瓦葺2階建の櫓門があったそうですが、正保3年(1646年)の大嵐(現代の台風)で2階部分が破損し、その後、明治までは茅葺平屋建てになったそうです。
「その1」で見た裏門入口まで降りてきました。
この門を出た南側に、さっき二ノ丸から見下ろした御城番屋敷がありました。
おそらく、往時は表門より裏門の方が人の往来が激しかったのではないでしょうか。
もう一度裏門を上って、二ノ丸の西側には、隠居丸があります。
松坂城は蒲生氏郷のあと、服部一忠を経て、古田重勝が3万4千石で入城しました。
隠居丸は、その古田重勝が隠居するために設けた曲輪と伝えられます。
現在、隠居丸には本居宣長記念館があります。
本居宣長は江戸時代後期の国学者で、本業は医者でありながら、『源氏物語』などことばや日本古典を講義し、また現存する日本最古の歴史書『古事記』を研究し、35年をかけて『古事記伝』44巻を執筆するなど、18世紀最大の日本古典研究家といわれる人物です。
『古事記』も『源氏物語』も、江戸時代には読解不能だった古典でしたが、それを研究・解読したすんごい学者さんです。
彼がいなければ、我々の知る古典文学は、また違った解釈になっていたかもしれません。
門の前には「史蹟本居宣長舊宅」と刻まれた石碑があります。
門から見た隠居丸内庭園です。
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この日は時間がなかったのでパスしました。
さて、表門、裏門、二ノ丸、隠居丸を制覇しました。
いよいよ本丸へ登りますが、長くなっちゃったので「その3」に続きます。
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by sakanoueno-kumo | 2023-11-05 13:39 | 三重の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)