どうする家康 第38話「唐入り」 ~文禄の役と淀殿2度目の懐妊~ : 坂の上のサインボード
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どうする家康 第38話「唐入り」 ~文禄の役と淀殿2度目の懐妊~

小田原征伐を終えて天下統一を成し遂げた翌年の天正19年(1591年)、豊臣秀吉の身の回りを立て続けに不幸が襲います。1月には最も信頼していた実弟・豊臣秀長を亡くし、2月には、これまた側近中の側近だった千利休を自らの命によって切腹させるに至り、その半年後の8月には愛息・鶴松を病で失うという、秀吉にとっては厄年のような年となります。


どうする家康 第38話「唐入り」 ~文禄の役と淀殿2度目の懐妊~_e0158128_19121164.jpg 愛児・鶴丸を失った秀吉は、すぐさま、来春に「唐入り」(朝鮮出兵)を決行することを全国に布告します。世に言う「文禄・慶長の役」の始まりですね。ポルトガル人宣教師・ルイス・フロイスの記した『日本史』によれば、支那征服への思いはかつて織田信長も抱いていたといいますから、秀吉はその思想を引き継いだのかもしれません。秀吉の構想は信長のそれより壮大なもので、のみならず台湾フィリピン、さらにはインド、南蛮への進出も視野に入れた「アジア帝国」を夢想していたともいわれます。「唐入り」を布告した秀吉は、同じ年の10月、その準備として肥前国に名護屋城の築城を開始します。工事は加藤清正、小西行長らを中心に突貫作業で進められ、わずか半年で竣工しました。さらに、その名護屋城の周りには全国の諸大名の陣屋が建ち並び、わずか数ヶ月の間に人口は20万人に膨れ上がり、戦時だけとはいえ大坂に次ぐ大都市となりました。集結した諸大名たちは、秀吉による天下統一の世を、改めて肌で感じたことでしょう。


 年が明けた文禄元年(1592年)4月、豊臣軍(あえて日本軍とは言いません)は総勢158の大兵団を率いて朝鮮半島へ侵攻を開始します。総大将は豊臣家一門扱いとなっていた宇喜多秀家。朝鮮半島に上陸した豊臣軍は、わずか数時間で釜山城を制圧。その後も連戦連勝を重ね、わずか20日間で首都の漢城を占領しますが、その快進撃もそこまで。その後、からの援軍が登場し、さらに、海上では朝鮮水軍の前に苦戦を強いられ、戦況は膠着状態に陥ります。


 千利休の切腹、豊臣秀次事件と並んで、晩年の秀吉の蛮行として語られることが多いこの朝鮮出兵、いわゆる「唐入り」ですが、そもそも秀吉が唐入りを断行した目的は何だったのでしょう。一説には、この少し前に愛息・鶴松が死去したことにより、その悲しみを紛らわすために、無謀な朝鮮出兵に走ったともいわれます。ドラマでもそんな台詞がありましたね。実際、鶴松の死の直後すぐに肥前名護屋城を築き、着々と朝鮮出兵を始めとする外征に専念するようになっていきます。悲しさを紛らわすために無理矢理仕事に没頭する・・・。同じ男としてわかるような気がしますね。しかし、実際には、鶴松の死の以前から唐入りの計画は進められており、この説は成り立たないといっていいでしょう。たまたまタイミング的に鶴松の死と重なったため、周囲にはそう見えたかもしれませんが。


 他の説でいえば、外征によって諸大名の軍事力を弱めるため・・・とか、勘合貿易を視野に入れていたため・・・とか、征服欲に歯止めが利かなくなった・・・とか、年を取って耄碌していた・・・など諸説ありますが、一般的に言われているのは、国内に恩賞として与える領土がなくなったため、大陸に目を向けたという説が最も有力でしょうか。成り上がり者の秀吉にとって、徳川家康のように譜代家臣はおらず、恩賞があってこその主従関係と考えた秀吉が、対外領土の獲得を目指したという説です。たしかに、これがいちばん理由としては頷ける気がしますが、もう一つ、近年にわかに言われ始めている説が、スペイン警戒説です。


当時のスペイン帝国は国王フェリペ2世の統治下で、まさに絶頂期にありました。ヨーロッパのみならず、新大陸(アメリカ)、アフリカ、アジアに植民地を獲得し、世界最大規模の版図(領土)誇っていました。当時、すでにスペインはフィリピンを植民地にしていましたが、思うような利益を上げられていなかったため、新たな植民地として中国(明)を狙っていたことが明らかになっています。そして、その次のターゲットは日本と考えていたようですね。


また、同じころ、ポルトガルが日本人を奴隷として輸出しており(九州のキリシタン大名が火薬と引き替えに奴隷交易をしていた)、これを重く見た秀吉は、伴天連追放令を発布。キリスト宣教師の追放を行っています。この伴天連追放令も晩年の秀吉の愚策ととらえられがちですが、のちの徳川幕府もこれを継承し、むしろさらに厳しく取り締まるようになったことを思えば、決して耄碌した秀吉の蛮行だったとは言い切れないでしょう。少なくとも、スペインのキリスト教布教活動は、それを隠れ蓑にした世界征服が目的でした。同じころ、ポルトガルはスペインに併合されていましたから、これも秀吉がスペインを警戒していた理由と言われています。つまり、秀吉の唐入りは、スペインの進出に先駆けたものだった、と。ただ、この説はドラマや小説ではあまり採られないですね。


どうする家康 第38話「唐入り」 ~文禄の役と淀殿2度目の懐妊~_e0158128_19162654.jpg 朝鮮半島での戦いが膠着状態に陥っていたころ、淀殿の2度目の懐妊が発覚、そして文禄2年(1593年)83日、待望の男児が生まれました。名は「拾」。のちの豊臣秀頼ですね。秀吉はこれを機に名護屋城から大坂城に戻り、それが影響してか、明・朝鮮連合軍と戦いは講和に舵が切られはじめます。ドラマでは、講和が成ったあとに淀殿の懐妊の報せが届いていましたが、実際には出産の頃に講和が成立しています。もともと鶴松死去と共に始まった「唐入り」でしたから、再び男児が生まれたことで、秀吉の大陸に対する情熱は、多少は薄らいだかもしれませんね。ただ、この男児出産の報せでいちばん動揺したのは、前年12月に秀吉から関白職を譲り受けていた甥の豊臣秀次だったであろうことは、想像に難くありません。次回、その秀次事件が描かれるのか・・・。でも、予告編では秀吉の死まで一気に進んじゃいそうな感じでしたが。



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by sakanoueno-kumo | 2023-10-10 19:17 | どうする家康 | Trackback | Comments(0)

 

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