どうする家康 第30回「新たなる覇者」 その3 ~賤ヶ岳の戦い、越前北ノ庄城の戦い~
「その2」のつづきです。
清洲会議以降、決定的な対立関係となった羽柴秀吉と柴田勝家。もはや天下を視野に入れた秀吉にとって勝家は邪魔な存在であり、一方の勝家にとっても、秀吉の思うがままにさせたくない意地がありました。二人の間で戦が起こるであろうことは、誰の目にも明らかだったでしょう。
秀吉の勝家に対する挑発は、天正10年(1582年)10月15日、織田信長の葬儀を秀吉の主宰で行ったことに始まります。喪主は、信長の次男・信雄や三男・信孝を差し置いて、四男の羽柴秀勝に務めさせました。秀勝は羽柴という姓からもわかるように、信長から秀吉が貰い受けた養子でした。つまり、秀吉は喪主の義父という立場だったわけで、これは、秀吉が信長の後継者であるということを世に示したセレモニーだったとみていいでしょう。そしてその席には、勝家も、お市の方も、列席することはありませんでした。
葬儀が終わって2ヵ月も経たない12月、越前にいる勝家が雪で動けないと見た秀吉は、勝家の甥である柴田勝豊の居城、長浜城を攻めます。勝豊は勝家の甥でありながら、叔父の勝家とは不仲であったといわれ、そんな関係だったからか、勝豊はあっけなく降伏、秀吉方に寝返ります。さらに同じ12月、秀吉は岐阜城の織田信孝も降伏させて三法師の身柄を確保。安土城に織田信雄と三法師を迎え、自身はその後見役として、天下の実質的な支配者としての地歩を固めました。この報を聞いた勝家は、人員を総動員して兵道の雪を取り除き、いよいよ出撃の準備にとりかかります。そして翌天正11年(1583年)4月、いよいよ決戦の火蓋が切られました。
羽柴秀吉と柴田勝家が対峙したこの決戦は、近江賤ヶ岳、同柳ケ瀬が戦場になったことから、古くは『柳ケ瀬の役』とも呼ばれたそうで、現在では『賤ヶ岳の戦い』として知られます。当初、伊勢で小競り合いがはじまったことにより、先に秀吉が出兵を開始。次いで3月上旬、越前北ノ庄城から南下した勝家軍は、柳ケ瀬の内中尾山に陣地を構築しました。一方、秀吉は木之本まで進撃したのち、美濃大垣城へ転進して、岐阜城主・神戸信孝(織田信孝)に睨みを利かせた。このとき、勝家軍の副将であり勝家の甥でもある佐久間盛政は、一瞬の機会を捉えて大岩山まで攻め寄せ、秀吉方の中川清秀を討死に追い込み、さらには隣の岩崎山にいた高山右近を攻撃してこれを撃退しました。しかし、あまりにも出来すぎのこの戦果に、勝家はあくまで慎重な姿勢を崩さず、秀吉の並外れた機動力や、用兵の巧みさを熟知していた勝家は、再三撤退を勧告したといいます。しかし、盛政はこれに応じようとはしませんでした。この予想外の勝利に、盛政は舞い上がってしまったのでしょうか。ところが、案の定、勝家の懸念は的中します。秀吉率いる羽柴方の本隊(約1万5千)は、大垣から木之本間の約12里(約50㎞)を5時間で走破し、4月21日の未明、盛政の陣地に襲いかかりました。
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かくして戦場を離脱した勝家は、4月23日までに、お市の方と三人の娘たちの待つ越前北ノ庄城に戻りました。しかし、敗走中、味方の中には臆病風に吹かれて逃亡したり、敵方に寝返った者も多くいたようで、勝家と共に城へ入ったのは僅かな人数だったといいます。勝家にしてみても、城へ戻ったところで秀吉軍に包囲されるのは火を見るより明らか。図らずも、間もなく北ノ庄城は、秀吉軍によって重包囲されました。しかし、勝家がかつて織田家の重臣筆頭だったからか、または、お市の方が城内にいたからか、秀吉がすぐに城へ総攻撃を仕掛けることはなく、しばらく散発的な銃撃戦が繰り返されるといった状況が続きました。やがて銃撃戦も止み、城の内外を不気味な静寂が覆います。同日夜、先の賤ヶ岳の戦いで奮戦し、最後まで自分に従ってくれた者たちの労をねぎらうべく、勝家は城内で宴を開いたといいます。その賑やかな様子は城外にも響き、その様子を聞いた秀吉軍は、勝家の覚悟を悟ったと伝わります。そして同じ頃、お市の3人の娘たちが、秀吉軍の陣まで送り届けられました。このときお茶々は14歳、お初は13歳、お江は11歳。その姿は、まさに10年前の小谷城落城のときと同じでした。しかし、10年前と違っていたのは、そこに母、お市の姿がなかったということでした。
秀吉軍は、お市も城を出るよう再三促したと伝えられますが、お市は勝家と運命を共にする道を選びました。その理由については、古くから様々な解釈がなされています。秀吉が勝家を助命する可能性が皆無であること、兄の信長が落命していたため返るべき家がないこと、助命の打診に応じて城を出てもそれが履行されるとは限らないことなど、いずれも理由としては充分なものですが、多少ドラマチックに考えると、彼女にしてみれば二度目の落城経験で、同じ轍は踏みたくない思いが強かったのかもしれません。10年前に生きる道を選んだのは、幼い娘たちのため。しかし、彼女にとってこの10年間は、死んだも同然の10年だったのかもしれません。お市は勝家に嫁ぐときから、この最後の覚悟は出来ていたのではないか・・・とさえ思うのは、ドラマの観すぎでしょうか。彼女にとって勝家との結婚は、死に場所を求めた結婚だったのでは・・・と。
天正11年(1583年)4月24日早朝、秀吉軍の総攻撃が開始されたため、同日夕方、勝家・お市の方夫婦、12人の側室(異説あり)、約80人の家臣、約30人の女中らは、北ノ庄城天守にて自刃を遂げました。生年を天文16年(1547年)とする説にしたがえば、お市はこのとき37歳。同じく生年を大永2年(1522年)とする説にしたがえば、勝家はこのとき62歳でした。
「さらぬだに 打ちぬる程も 夏の夜の 別れをさそふ 郭公(ほととぎす)かな」お市
「夏の夜の 夢路はかなき 跡の名を 雲井にあげよ 山郭公(ほととぎす)」
さて、長くなっちゃいましたが、ドラマについて少しだけ。本来、接点はあまりなかったであろう家康とお市を幼馴染という設定しにて、初恋の相手という関係に描いてきたのは、ここにつなげるための伏線だったんですね。幼い頃の約束を信じ続けて待っていた母を、家康は助けに来なかった。それを娘のお茶々は恨み続け、それが、関が原、そして大坂の陣に繋がっていく・・・と。なるほど。まあ、悪くない脚本だと思います。それはいいとして、ただ、今回もひとつ、聞き捨てならない台詞がありました。それは、徳川の軍議の席で大久保忠が言った、「柴田勢の本当の総大将は、柴田勝家でも織田信孝でもなく、お市さまかと」という一言。いやいやいやいや、それは言い過ぎ。それは勝家を愚弄しています。このドラマはどうしても女性を活躍させたいんですね。ドラマですから、フィクションはかまいません。だから、家康とお市が幼馴染という設定もいいでしょう。でも、これは、女性の社会進出、女性の活躍推進を目指す平成令和の価値観です。また脚本家さん、やってくれましたね。この人はホント、歴史を馬鹿にし過ぎです。
気が付いたら、また今週も批判に走ってしまいました。それにしても、お茶々役の白鳥玉季さん、上手かったですねぇ。まだ13歳だとか。最後の秀吉に見せた妖艶な笑みは、ゾッとしました。そこで、ふと思ったのですが、淀殿役の女優さんだけまだ発表されてないですよね。わたしはこれまで勝手に、広瀬すずさんとか橋本環奈さんなどと予想して発言してきましたが、今回、少女時代の女優さんを挟んだことで、淀殿は、もっと年齢が上の大人の女優さんなんじゃないかと考え改めました。すずちゃんとか環奈ちゃんだったら、少女時代もできますもんね。と、思ったとき、ひょっとしたら、淀殿役は北川景子さん?・・・じゃないかと。だって、主要な人物で発表されていないのは、あと淀殿だけですもんね。お市と淀殿の一人二役?・・・あり得るかもしれませんね。
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by sakanoueno-kumo | 2023-08-09 19:35 | どうする家康 | Trackback | Comments(2)
総大将の件、これじゃー柴田勝家が怒ってお盆に出てきそうです!!男と女の立ち位置を現代と重ねたら歴史ドラマの重みがなくなります、そんなのもこの脚本家はわからんのかな?
おーっ!
貴姉もそう思われましたか。
お市と淀殿の一人二役って今までなかったと思いますから、斬新なアイデアですね。
でも、回想シーンとかややこしくなりそう(笑)。
脚本家の無知からなのか、NHKサイドからの要望なのか・・・でも、去年の『鎌倉殿』とか一昨年の『青天』とかは、決して女性を過度に活躍させるような描き方はしなかったので、やっぱ脚本家さんなんでしょうね。
現代の女性活躍推進は大いに結構だと思いますが、それを歴史ドラマに重ねたら、それはもはや歴史ではなくなります。
そうすることによって若い層の支持を得られると思っているんですかね?
だとしたら、浅はかすぎですよね。