どうする家康 第30回「新たなる覇者」 その2 ~清須会議・柴田勝家とお市の方の結婚~
「その1」のつづきです。
山崎の戦いから半月後の、天正10年(1582年)6月27日、尾張・清洲城において織田家後継者ならびに遺領の分配を決めるための、織田家家臣重役会議が開かれました。世にいう「清洲会議」です。
会議の列席者は、柴田勝家、羽柴秀吉、丹羽長秀、池田恒興。もうひとりの重臣である滝川一益も本来ならば列席すべきでしたが、関東での北条氏との戦いに敗れ、敗走中のため会議に間に合わなかったといわれます。また、後継者候補の当事者である信長の次男・織田信雄、三男・織田信孝も、この時すでに、お互い後継者候補と自負して対立は表面化していたようで、清洲城には来ていたものの、この会議には列席していなかったようです。
会議に臨むそれぞれの立場をいうと、柴田勝家は本能寺の変が起きたとき北陸で上杉と対峙しており、信長の弔い合戦には参加できませんでした。羽柴秀吉は言うまでもなく明智討伐の功労者。丹羽長秀や池田恒興は織田家の尾張統一以前からの古参の家臣で、秀吉と共に明智討伐に参戦していました。勝家は織田家筆頭家老という立場であったものの、ひとり明智討伐の功がない、不利な立場にありました。
その勝家は、山崎の戦いの総大将だったことを理由に信孝を後継者に推しました。ところが、秀吉がこれに反論。三男の信孝が次男の信雄を差し置いて後継者となるのは問題があるとし、さらに、信雄はすでに北畠氏へ養嗣に、信孝も神戸氏へ養嗣に出されていることもあり、信長と共に落命した嫡男・織田信忠の忘れ形見で信長の嫡孫でもある、三法師(後の秀信)を推します。これに池田恒興、丹羽長秀共に賛同。一説には、秀吉は長秀や恒興を事前に根回しして抱き込んでいたともいいますが、その真偽は定かではありません。もっとも、根回しがなくとも秀吉の主張は筋が通っていました。そもそも織田家の家督は、信長存命中にすでに長男の信忠が継いでおり、その嫡男である三法師が後継者となることは、当然の道理だったといえます。それでも勝家は、三法師が幼いということを理由に信孝を推し続けたといいますが、秀吉には明智討伐の功という強みもあり、結局は秀吉の前に屈し、後継者は数え3歳の三法師で決定、信雄と信孝の二人はその後見役として落着します。会議が終わって新しい上様に拝礼ということになり、三法師を抱いた秀吉の前に、ひとりひとりが来て平伏しました。秀吉は軽く頷いて礼を返していたといいますが、それはあたかも、秀吉が礼を受けているようだったといいます。
こうして会議は、秀吉の思い通りに進みました。本能寺の変から中国大返し、山崎の戦いまでは、天が秀吉の天下取りに味方した偶然ともいえますが、ここからはまぎれもなく、秀吉の知略、謀略を尽くした天下取りが始まります。
この清洲会議以降、織田家における秀吉と勝家の立場が逆転しました。信長の弔い合戦に遅れを取り、後継者争いに負け、さらに会議のもうひとつの議題であった信長の遺領配分においても、河内や丹波、山城を増領した秀吉に対し、勝家は北近江3郡の長浜城を得るにとどまり、事実上、織田筆頭の座を秀吉に奪われたかたちとなります。ところが、そんな勝家のもとに、信長の妹・お市の方が嫁ぐことになったんですね。
この時代、大名クラスの妻は、主人亡き後は出家して夫を弔うことがほとんどでしたが、お市は出家せず、9年間、3人の娘と信長の庇護のもと暮らしていたといいます。なぜ出家しなかったかはわかりませんが、おそらく信長が、お市の美貌を政治の道具に使えると考え、出家させなかったのではないでしょうか。そのお市に着目した信孝が、織田家における秀吉の発言力が増すことを抑えるために、勝家との間を仲介した、というのがこれまで言われてきた説です。今回のドラマでは、お市自らの意思で勝家の元に嫁いでいましたね。いずれにせよ、これまでドラマなどで描かれてきたのは、秀吉はお市に思慕していたものの、お市は小谷城落城以来、秀吉を毛嫌いしており、秀吉牽制のため勝家に嫁ぐことを決意した・・・というもので、このことによって、秀吉の「勝家憎し」の感情が、さらに増した・・・というものでした。
ところが、近年では、秀吉の仲介を伺わせる書状が見つかったことから、勝家とお市の結婚は秀吉が仲介したものという説が有力となっているそうです。となれば、上記のお市の決意も秀吉の感情もすべて否定され、結婚の理由も???となりますよね。秀吉はなぜ、自身にとっては不利となるような結婚を仲介したのでしょう。また、お市はなぜ、9年間も再婚することのなかった我が身を、このタイミングで勝家に捧げたのでしょう。
理由はいろいろ想像できます。信長の妹を嫁がせることによって、勝家の反秀吉の強硬姿勢を緩めるための懐柔策・・・いわゆる、手土産のようなもの・・・とか、もしくは、後継者争いや遺領配分など、あまりにも秀吉の思い通りにことを運びすぎたことにより、織田家内での反感を買うことを懸念し、彼の支持基盤を固めるためのカムフラージュ・・・とか、あるいは、秀吉が力を持つことを快く思っていないお市を、いずれは衝突することになるであろう勝家のもとに嫁がせ、一緒に葬り去ってしまおうと画策した・・・などなど。どれもこれも憶測の域をでませんが、お市の側にしてみれば、いくら女性に結婚の自由がなかった時代とはいえ、旧主君の妹君という立場でいえば、断ろうと思えば断れたはず。このタイミングで嫁ぐ決意をしたのは、織田家の行く末を案じた上で、勝家という人物が最も信頼できると判断したから・・・と、考えるのが一番合点がいきます。そして、秀吉の台頭を快く思っていなかったという話も、案外本当のことだったのではないでしょうか。しかし、周知のとおり、勝家とお市の夫婦生活は、ほんの束の間にすぎませんでした。
清須会議とお市の勝家の結婚だけで、またまた長くなっちゃいました。
つづきは明日、「その3」にて。
ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
↓↓↓
by sakanoueno-kumo | 2023-08-08 17:40 | どうする家康 | Trackback | Comments(0)