どうする家康 第30回「新たなる覇者」 その1 ~天正壬午の乱~
清須会議、柴田勝家とお市の方の結婚、天正壬午の乱、賤ヶ岳の戦い、越前北ノ庄城の戦いと、超足早に描かれましたね。これまでの戦国ものの大河作品であれば、3、4話ほどに分けて描かれていた重要なポイントです。まあ、本能寺の変の時点ですでに全話の3分の2を費やしてしまっていますから、ここから駆け足になるであろうことは予想してはいましたが。ただ、上記の歴史でいえば、主人公の徳川家康が深く関わったのは天正壬午の乱だけで、あとは羽柴秀吉が主役の物語ですね。にもかかわらず、天正壬午の乱がいちばん省略されていたという・・・。のちの物語の伏線的にお市の最期はしっかり描かないといけないというのはわかるのですが・・・。今更ながら、前半のくだらない話の回を省いて、後半に尺を残していてほしかった。
羽柴秀吉が山崎の戦いで勝利し、清須会議で政局を争っていた頃、家康は東国で別の戦いに力を入れていました。本能寺の変で織田信長が横死したことによって、旧武田領に入っていた織田系武将たちはたちまち撤退を余儀なくされることとなり、旧武田領である上野国、信濃国、甲斐国は、いわば無主の国となります。このような状況に対して、家康は素早く手を打ちました。すなわち、天正10年(1582年)7月、家康は軍勢を率いて甲斐、信濃に攻め込みます。他方、相模国の北条氏政、氏直父子も同じことを考え、織田信長の代官として上野国に入っていた滝川一益に打ち勝つと、上野国南部をほぼ制圧し、さらに碓氷峠を超えて信濃に侵攻する動きを見せます。また、北に目をやれば、越後国の上杉景勝も北信濃に攻め入り、同地の国衆や旧武田遺臣たちを味方に引き入れました。
信濃に入った北条は、当初、北信濃の制圧を目指し、上杉と事を構えようとしました。しかし、上杉攻めのために仕組んだ謀略が失敗に終わり、攻め入る機会を逸してしまいます。すると北条氏直は、北信濃の制圧を諦め、徳川が侵攻した甲斐方面に矛先を向けます。これを受けた徳川軍は、新府城と能見城を拠点に北条の大軍を迎え撃つ姿勢を見せますが、兵力では圧倒的に劣るため、うかつに手出しできない状況にいました。一方の北条軍も、新府城にほど近い若神子城に本陣を布きますが、徳川軍の固い守りを崩す手立てが見出せず、戦況は長期戦の様相を見せます。ただ、兵力の差を見れば、北条軍約2万に対して徳川軍約8千。徳川軍が圧倒的不利な状況に置かれていたことは間違いありません。
ところが、8月12日の黒駒の合戦により戦いの局面が大きく変わります。すなわち、北条氏政は氏直を支援すべく1万余りとも言われる軍勢を送り込みますが、これを徳川軍の鳥居元忠の部隊が黒駒で撃破。討ち取った300余りとも伝わる首級を敵方の陣に向けて晒したため、北条方は大いに戦意をそがれました。その後、8月末には木曽義昌が、また9月末には真田昌幸が配下に入ったことにより徳川軍はさらに力を増し、その真田昌幸が依田信蕃と連合軍を形成して小諸城を攻め、北条方の補給路を絶つという活躍を見せます。これに窮した氏直は、家康に和睦を申し入れるに至りました。家康も、織田信勝・信孝兄弟の勧めもあり、和睦に応じます。
和睦は10月29日に成立し、家康の次女・督姫を氏直の正室として嫁がせ、その代わりに、甲斐国、信濃国を徳川領に、上野国を北条領ということになりました。こうして家康は、三河、遠江、駿河、甲斐、信濃という5か国の大名にのし上がったわけです。かくして天正壬午の乱は終結に至ったわけですが、ただ、北条領とした上野国には、このたびの北条との戦いに功を挙げた真田昌幸の領する沼田城、岩櫃城が含まれていたんですね。この和睦条件は、北条方から徳川方に寝返った真田昌幸としては、およそ受け入れ難いものでした。これが、のちの北条氏滅亡につながる大きな火種となります。
やっぱ、今回はとても1稿では収まらないですね。
秀吉の動きについては、明日、「その2」に続きます。
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by sakanoueno-kumo | 2023-08-07 16:38 | どうする家康 | Trackback | Comments(0)