どうする家康 第29回「伊賀を越えろ!」 ~神君伊賀越えと山崎の戦い~ : 坂の上のサインボード
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どうする家康 第29回「伊賀を越えろ!」 ~神君伊賀越えと山崎の戦い~

本能寺の変の報せを受けた徳川家康一行は、たちまち大ピンチとなります。というのも、織田と同盟関係である徳川は、明智光秀からみれば敵といえました。もし、明智軍に遭遇すれば、衝突は避けられません。しかし、弔い合戦が出来るような兵力を引き連れておらず、かといって、逃げるにも主な街道はすべて明智軍が抑えているだろう、さりとて、道なき道を進めば、土民の落武者狩りに遭うことは必至。まさに、四面楚歌の状態だったわけです。現代と違って、国と国を結ぶ街道というのは、限られていましたからね。絶体絶命のピンチに狼狽した家康は、土民の槍に掛かって果てるよりは信長の後を追って切腹しようと決意しますが、従っていた本多忠勝に思いとどまるよう説得され、翻意したと伝わります。このとき家康に同行していたメンバーは、酒井忠次、石川数正、本多正信、本多忠勝、榊原康政など錚々たる顔ぶれで、もしこのとき彼らが家康と共に切腹していたら、信長の横死以上に歴史が大きく変わっていたでしょうね。


どうする家康 第29回「伊賀を越えろ!」 ~神君伊賀越えと山崎の戦い~_e0158128_20450078.jpg逃げると決めた家康一行は、険しい山道の続く伊賀越えコースを選びました。その理由は、明智軍の目を掻い潜るにためは道なき道を行くしかない・・・という結論だったのでしょう。少人数だったから可能だったともいえるでしょうね。家康一行のとった行程は諸説あってハッキリしませんが、一般に知られる通説では、河内国の尊延寺村(現在の大阪府枚方市)から宇津木越えをして、山城国の宇治田原(現在の京都府宇治田原町)に入り、そこから近江の信楽(現在の滋賀県甲賀郡信楽町)に入って、そして、甲賀南部から伊賀北部に向けて「伊賀越え」をしたものと推測されます。柘植村(現在の三重県阿山郡伊賀町)から加太越えをし、関宿亀山を経て白子浜(現在の鈴鹿市)に抜け、そこから海路、三河国(現在の愛知県岡崎市)に帰還しました。


どうする家康 第29回「伊賀を越えろ!」 ~神君伊賀越えと山崎の戦い~_e0158128_19272750.jpg 家康の伊賀越の道案内として活躍したのが、伊賀国出身の服部半蔵正成と、豪商・茶屋四郎次郎だったといいます。服部半蔵は後世の物語などで忍者として出てくる人物と混同しがちですが、実際には忍者ではありません。ただ、半蔵が道案内したという逸話は、『伊賀者由緒忸御陣御伴書付』には書かれているものの、徳川家正史である『徳川実紀』には記されておらず、眉唾ものです。半蔵は三河国の岡崎で生まれ育ったともいいますから、伊賀の山中を庭のように熟知していたとは思えません。一方の茶屋四郎次郎は、道中で土民たちに銀子をばら撒き、道案内を雇ったといいます。こっちの方が、現実味のある話ですが、今回のドラマでは、茶屋四郎次郎は道案内には加わりませんでしたね。


 ドラマでは、伊賀越えの道中で甲賀の多羅尾光俊と伊賀の百地丹波が出てきましたね。甲賀衆の元締めだったとも言われている多羅尾光俊が、逃亡中の家康一行を自身の居城である小川城(あるいは麓の妙福寺)に招き入れたという話は、いくつかの史料にみられる話なので、史実と見ていいのでしょう。このときの功により、のちに光俊は山城・近江国内に所領を与えらます。一方、伊賀の百地丹波がこのとき家康と関わったという史料はありません。そもそも、百地丹波という人物自体、後世に伝説の伊賀忍者として作られた虚像の部分が多く、ほとんど謎の人物と言っていいでしょう。今回の話も、おそらくドラマのオリジナルでしょうね。


 いずれにせよ、このとき家康たちがいかに危険な状態にあったかは、別行動を取った穴山信君(梅雪)落ち武者狩りに遭って落命したことからも、想像がつくでしょう。明智光秀の追手が家康や梅雪にまで伸びていたかどうかはわかりませんが、こういう非常時には、最も恐るべきは落ち武者狩りです。地侍や百姓たちにとって、それは特別収入のような旨味のある機会でした。敗残の逃亡兵を討ち取って、甲冑や金品を奪い取る。相手は敗北者だから、後日の報復の恐れもなく、奪い取り放題でした。また、討ち取った武士が名のある人物の場合、その首を相手方陣営に持ち込めば、多くの褒賞に預かることができます。このときの家康は、落ち武者狩りの格好の標的だったでしょう。


ちなみに、現在の新名神高速道路での堺~岡崎間は220kmほどだそうです。山道ということを考慮すれば、家康一行の通った道のりの距離はもっと多かったでしょうね。時を同じくして行われていた羽柴秀吉中国大返しは、200km。しかも、秀吉のそれは、士気高揚とした天下取りへの道のりなのに対し、家康の方は、戦々恐々とした逃避行。ある意味、こっちの方がスゴイかもしれません。よく逃げおおせたなあ・・・と。


どうする家康 第29回「伊賀を越えろ!」 ~神君伊賀越えと山崎の戦い~_e0158128_19245426.jpg 明智光秀の動きについてもふれておきましょう。本能寺で信長を討った光秀は、まず、信長の居城だった安土城に入城し、そして、長浜城、佐和山城を攻略し、一時は近江一帯を手中に収めます。しかし、味方についてくれると信じていた丹後の細川幽斎(藤孝)・細川忠興父子や大和の筒井順慶など、かねてから昵懇の諸将からことごとく援軍要請拒否され、朝廷を味方につけようとするも、これも思うようにことが運ばず、誤算に次ぐ誤算といった状況に陥ります。そんななか、羽柴秀吉軍が備中から信じられないスピードで戻ってきたという大誤算の仰天ニュースが入ってくるんですね。結局明智軍は、孤立無援の状態で秀吉軍を迎え撃たざるを得ませんでした。


天正10年(1582年)613日、天王山と淀川に挟まれた山崎にて、決戦の火蓋が切られました。世にいう「山崎の戦い」ですね。後世に「ここが勝負の天王山」という言葉まで生んだ日本史のターニングポイントですが、戦い自体は、わずか1日であっけなく決着がつきます。その理由は、明智軍1万5千に対して秀吉軍3万とも4万ともいわれる圧倒的な兵力の差もあったでしょうが、なにより、「中国大返し」という大進軍を成功させ、不可能を可能にして勢いに乗った秀吉軍と、信長を討ったあとことごとく裏目裏目にはたらいて、意気消沈ぎみだった明智軍との、モチベーションの差が大きかったでしょうね。両軍の合戦を迎えるまでのプロセスで、すでに勝負はついていたといえます。


敗れた光秀は、本拠地である近江坂本城に向かう途中に落ち武者狩りに遭い、竹藪で非業の死をとげます。本能寺の変から、わずか11日後のことでした。世にいう「明智光秀の三日天下」です。


 劇中、本能寺の変の報せが入った浜松で、「どうして明智殿が」と問うた於愛の方に対して、大久保忠世「やれたからやった・・・までのことかと」と答えていましたが、まさしく、わたしもその通りだと思います。本能寺の変のような歴史を大きく変えた事件を見るとき、後世は何かとそこに因果関係を探して難しく考えようとしますが、史実というのは、意外に単純なものだったのではないかとわたしは思っています。もちろん、その動機はいろいろ考えられますが、少なくとも、周到な計画のもとの行動ではなかったんじゃないかと。信長を討って安全に逃げ延びるためには、信忠を同時に討つ必要があり、その信長と信忠が偶然にも身軽で揃うなど、突然訪れた千載一遇の好機だったため、突発的に決起したんじゃないかと。つまり、大久保忠世が言うとおり、「やれたからやった」・・・までのことだったんじゃないかと。それゆえ、事変後の展望を持つことができず、三日天下に終わったのでしょう。


 で、今回のドラマについてですが、伊賀越え自体は謎に包まれていますから、どのように描こうといいとは思うのですが、「わしの首はやる。だから他の者は見逃せ」って台詞、これ、ダメでしょう? 今回もまた、脚本家さんやらかしてくれましたね。雑兵たちに食料をくれてやるところまでは、まあ、いいとしましょう。でも、雑兵のために首をくれてやる殿様なんていません。自身の切腹と引き換えに城兵の命を救った清水宗治のような殿様もいますが、あれとは違います。宗治の場合、自身の命を差し出すことによって何千の籠城兵の命が救われるのと、毛利と織田の講和という政治的理由もありました。首をくれてやるそれ相応の価値があったのです。ドラマの家康の場合、ただ目の前の数人の雑兵の命を助けるというだけのこと。ただの慈悲の心ってやつです。どんだけいい人やねん!・・・と。雑兵はこういうときに命を張って主君を守る。主君は、その働きに対して褒美を与える。それが主従関係ですよ。殿様が数人の雑兵のために命を捨ててどうするんですか! 脚本めちゃくちゃです。もし、家康だけが殺されて忍びの彼らが生き延びたとしたら、彼らは徳川の重臣から罪を問われて処刑されるだけです。劇中の家康がやろうとしたことは、彼らを罪人にする愚行です。あれを美談と思っている脚本家の無知度が、もはや小学生レベルです。


 また、そもそも論でいえば、この物語では、家康は信長を殺すつもりだったわけですよね。であれば、そのあとの逃げ道は確保していたんじゃないんですか? 光秀ではなく家康が殺していたとしても、ピンチに陥るという点は同じのはず。ってか、むしろ、光秀は信長の弔いという大義名分のもと追手を差し向けるでしょうから、もっと危険な状態に陥るはずです。であれば、信長を殺したあとの逃走の手筈は、ちゃんと整えていたはずですよね。でなければ、家康の三日天下になるだけのことですから。とすると、信長が討たれたからといって、狼狽える必要はないですいよね。神君伊賀越え伝説は、想定外の出来事だったからこそのピンチだったはずですから。脚本、破綻してませんか?


 気づけば、めっちゃ長文になっていました。とにもかくにも、次回から秀吉編ですね。



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by sakanoueno-kumo | 2023-07-31 18:23 | どうする家康 | Trackback | Comments(0)

 

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