どうする家康 第16話「信玄を怒らせるな」 ~上杉謙信と徳川家康の同盟~ : 坂の上のサインボード
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どうする家康 第16話「信玄を怒らせるな」 ~上杉謙信と徳川家康の同盟~

 のちに「徳川四天王」のひとりに数えられる井伊直政が出てきましたね。最初、てっきり女性だと思って観ていました。実際の直政も美少年だったといいますから、少年時代はあんな感じで女性みたいだったかもしれません。ただ、通説では、井伊直政徳川家康が初めて顔を合わせるのは天正3年(1575年)、15のときのことですから、姉川の戦い直後のこの時期より5年近く先のことです。顔見世の回だったってことですね。たぶん、まだ数え10歳。今でいえば小学校3年生ぐらいのはずなんですが・・・。勇猛果敢で知られる直政ですが、いくら何でも早熟すぎ!!


どうする家康 第16話「信玄を怒らせるな」 ~上杉謙信と徳川家康の同盟~_e0158128_22391044.jpg 姉川の戦いから帰って間もない元亀元年(1570年)8月ごろから、家康は越後の上杉輝虎(謙信)との接触を画策しはじめました。そして、1018日付けで、家康は謙信に対して起請文を送っています。これにより、両者は同盟を結ぶことになりました。上杉謙信は言うまでもなく甲斐の武田信玄の長年の宿敵であり、この同盟は、家康が信玄との手切れを決意したことを意味していました。この時点では、信玄は織田信長とまだ同盟関係にありましたから、信玄を絶って謙信と結ぶことは、信長に対しての裏切りとも言えなくもありません。家康としてはかなりの冒険だったといえますね。しかし、家康はあえて信玄と敵対する道を選びます。


どうする家康 第16話「信玄を怒らせるな」 ~上杉謙信と徳川家康の同盟~_e0158128_16514833.jpg ドラマでは、家康が謙信に宛てて送った密書が信玄の手に渡り、信玄が三河侵攻を決意するという脚本でしたが、実際にも、何らかのかたちで家康が謙信と結んだという情報が洩れて信玄の耳に入ったのでしょう。怒った信玄は、翌元亀2年(1571年)3月、大掛かりな三河侵攻作戦を開始。高天神城外などを視察して引き上げ、さらに信玄自身、23000ほどの兵を率いて三河に侵攻し、足助城野田城を落とし、さらに吉田城に攻撃をかけたといわれています。このとき、信玄の三河侵攻を知った信長が、家康に「浜松城から吉田城に退いたほうがよい」と勧告するも、家康は「浜松城を退くぐらいなら武士を捨てる」といって意地を見せたとの逸話が伝わっています。ただ、最近では、このときの三河侵攻はなかったとの説が有力になりつつあるようで、ドラマでも描かれなかったですね。


 信玄と家康の手切れにあたって、今回は家康の異父弟にあたる松平源三郎勝俊にスポットがあたりましたね。康俊とも言われます。家康の生母である於大の方が家康の父・松平広忠と離縁後、再婚した久松俊勝との間に生まれた三男(ドラマでは次男と言っていましたね)です。ドラマでは、武田との同盟にあたって兄・家康の命で人質として甲斐に送られたという設定になっていましたが、通説では、家康の命によって今川氏真の人質として駿河に送られるも、永禄11年(1568年)に信玄が駿河に侵攻した際、今川に仕える三浦与一郎という人物が武田に寝返り、その際、手土産に勝俊を伴って甲斐に入ったといい、これを信玄は大いに喜び、自身の庇護下に置いたといわれます。そして元亀元年(1570年)11月、ドラマで描かれていたように、家康の手配によって甲斐から三河への脱出に成功しますが、大雪のなか長時間山間部を逃げたため、両足の指を凍傷で失ったと伝わります。


 さて、今回のサブタイトルは「信玄を怒らせるな」でしたが、信玄を怒らせちゃいましたね。次回は家康の人生最大のピンチ三方ヶ原の戦いが描かれます。


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by sakanoueno-kumo | 2023-05-01 22:46 | どうする家康 | Trackback | Comments(0)  

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