どうする家康 第15話「姉川でどうする!」 ~姉川の戦い~
金ヶ崎の戦いで京都に逃げ帰った織田信長は、その約2ヶ月後の元亀元年(15670年)6月、大軍を率いて北近江に侵攻します。その目的は、金ヶ崎の戦いの際に反旗を翻した浅井氏への報復でした。6月中旬、北近江の有力国人で浅井長政に従っていた堀秀村が、竹中半兵衛の調略によって信長に寝返ると、信長はすぐさま浅井攻めを決心し、6月19日、軍が整わないまま近江に向けて出陣し、その後、美濃・近江の境界にある長比砦で遅れてきた家臣たちと合流し、21日に浅井氏の居城・小谷城南方の虎御前山に着陣します。そこで信長は、わずか1日だけ小谷城を攻めますが、守りが固いとみるや、長期戦を想定して小谷城の南方約9㎞の場所にある横山城に狙いをさだめ、軍を後退させます。そして横山城攻めが開始された頃、6千ほどの兵を率いて援軍に駆けつけた徳川家康が合流しました。ところが、同じ頃、浅井方にも強力な援軍が到着します。越前の朝倉景健軍でした。両軍は近江国浅井郡を流れる姉川を挟んで対峙し、元亀元年6月28日(1570年7月30日)、ついに激突します。世にいう「姉川の戦い」です。
兵力は織田軍2万3千人、徳川軍6千人に対し、浅井軍8千人、朝倉軍1万人といわれ、戦いは午前6時頃に始まり、午後2時頃に兵力に勝る織田・徳川連合軍の勝利で幕を閉じます。戦いの展開については、太田牛一の『信長公記』には次のように記されています。
廿八日卯刻、丑寅へむかって御一戦に及ばる。御敵もあね川へ懸かり合ひ、推しつ返しつ、散々に入りみだれ、黒煙立て、しのぎをけづり、鍔をわり、爰かしこにて、思ひおもひの働きあり。
(6月28日午前6時ごろ、東北に向かって一戦に及んだ。敵も姉川にかかって攻めてきたが、互いに押しつ押されつ、さんざんに入り乱れて、黒煙をあげ、しのぎを削り、つばを割って、ここかしこで思い思いの働きをした)
この文章を読む限り、かなりの激戦だったようですね。敗れた浅井・朝倉軍の戦死者の数は、『信長公記』によると「千百余討取」とありますが、『言継卿記』には「九千六百」とあり、かなりの開きがあります。どちらが正しい数に近いかはわかりませんが、9600人は多すぎる気がしますね。織田・徳川軍の方はどうだったかというと、『言継卿記』に「徳川衆、織田衆も多く死ぬ」とあり、その数は伝わっていません。近年の研究では、姉川の戦いは決して楽勝のいくさではなかったと言われていますから、おそらく織田・徳川軍も浅井・朝倉軍と同じぐらいの戦死者が出たのではないでしょうか。
家康が援軍に駆け付けたのは、開戦4日前の6月24日でした。ドラマでは、信長から先陣を切るよう命じられていましたが、実際にはどうだったでしょうね。江戸時代に編纂された『松平記』『三河物語』などでは、いずれも、織田軍は浅井軍に押されて危うかったが、徳川軍が浅井軍を打ち負かしたので、姉川の戦いに勝利することが出来た、と伝えています。まるで徳川軍の活躍によって勝利したような記述ですが、ただ、『松平記』しろ『三河物語』しろ、徳川氏創業史として書かれたものなので、随所に家康贔屓の記述が見られ、そのまま信じるわけにはいかないでしょうね。実際には、浅井軍と激突したのは織田軍、援軍の徳川軍が戦ったのは、同じく相手方の援軍である朝倉軍でした。通説では、徳川軍の榊原康政が朝倉軍の側面から攻めて朝倉軍を撤退させ、それに引きずられるように浅井軍も小谷城に退いたとされています。浅井軍撤退のきっかけを作ったという点では、家康の武功といえるかもしれません。
ドラマでは、浅井長政から家康に謀反を誘う書状が届いていましたが、これは、おそらくドラマのオリジナルでしょう。ただ、あり得ない話ではないですね。戦は戦場の戦いばかりに目が行きがちですが、その前の調略も立派な作戦のひとつだといえます。長政が家康を調略しようと考えてもおかしくはないですし、それを受けた家康が逡巡するも、家臣に諫められて我にかえるという話も、なかったとはいえません。こういうフィクションはありだと思います。今回、久々に・・・というか、本ドラマでは初めて大河ドラマらしい回だったんじゃないでしょうか(あの気持ち悪い秀吉は不満ですが)。
あと、信長の陣から見た姉川の戦場映像は素晴らしかったですね。わたしも信長が本陣を布いたとされる龍ヶ鼻陣跡に行ったことがあるのですが、まさに、あんな感じのロケーションでした。これぞVFXならではといえるでしょうか。ロケ撮影では、眺望まで再現することは出来ないですもんね。
話は変わって、見附城の築城を完成間際になって中止し、引間(曳馬)城を改修して浜松城としたという話は史実です。そして、それを命令したのが信長だったという話も、現在では有力な説とされています。見附には古代以来国府が置かれ、鎌倉時代以降は守護所も置かれていました。古代、中世を通して遠江の政治の中心だった見附に、家康も拠点を置こうとしたわけです。ところが、信長は天竜川を越えた東では万一のときに支援ができないとして、拠点を引間に置くように命令しました。その際、曳馬という名称が「馬を引く」、つまり兵を引くという意味で縁起が悪いと考え、浜松城と改めます。この改名まで信長の指示だったかどうかはわかりませんが、信長も稲葉山城を岐阜城と改めており、信長の指示か、あるいは信長のやり方を真似たのかもしれませんね。
さて、姉川の戦いに勝利した織田・徳川連合軍でしたが、その後、信長は小谷城に逃げ戻った浅井氏を追撃することなく兵を引きます。勝つには勝ったものの、ここで浅井・朝倉軍に対して決定的なダメージを与えることができなかったことが、この後、信長を苦しめることになります。
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by sakanoueno-kumo | 2023-04-24 14:17 | どうする家康 | Trackback | Comments(14)
この点は尤もな話ですが、ただ家康の逡巡の仕方があり得ないです。
凡そ戦国大名や領主が調略で逡巡するのは誰に味方することが所領の保全や増大を巡ってのことでしょう。ところが本作では家康は「浅井殿が良い人だから」という理由で浅井に味方しようとしています。「良い人だから殺すに惜しい。」と思うことはあても、それを理由に寝返ることまで考えるとは思えません。浅井の調略も「信長に義はない。」という紙切れだけで、そもそも征夷大将軍の命令で朝倉討伐に来ている信長軍、それも浅井家はその時信長と同盟している訳で、「義」で言えばそれを唐突に破棄して背後を突こうとした浅井家が義にもとると言える訳で、少しも説得力がありません。
また、時期も悪いです。調略を仕掛けるとしたら戦争が始まって随分経って敵が疲弊した頃合いに調略を仕掛け、敵の同盟関係の悪化を煽るか開戦の随分前に調略を仕掛けておくのが常道でしょう。
戦いが始まったばかりにあんな紙切れ貰ったくらいで、ああも家康が動揺するとは思えず、ストーリーに無理があります。
たしかに、おっしゃるとおりですね。
長政がいい人だから・・・という理由で敵味方を決めるということは、この時代の倫理観から言って有り得ないですね。
また、時期が悪いというのも、たしかにそうです。
まあ、そのあたりの矛盾点を指摘しだすとキリがないですから、多少は鷹揚に見ようと思っています。
家康と信長の同盟関係というのは、この時代には珍しく一度も壊れることなく信長の死まで続きますが、ただ、家康が一度たりともこの同盟に迷いを感じたことがなかったのか・・・というと、記録に残っていないだけで、あるいは、信長を見限ろうとしたことはあったかもしれない。
そういうことを描きたかったんじゃないでしょうか?
いや〜冒頭の「なんやかんやの」スルーの金ヶ崎の戦いに徳川軍に鉄砲撃ち込む織田軍、もはや関ヶ原の松尾山状態の家康。岡田信長の謎の耳噛み。でもこれでわかりました。もはや大河ファンに喧嘩売ってるとしか思えませんがもう最終回までこれで行く気だなと。コメントも結局、感想以前にあそこが変、ここが変で終わってしまう。
これではコメントの意味がないので大化け期待の三方ヶ原まで感想に関しては居眠ろうかと思っています。
まさか、三方ヶ原や長篠までなんやかんやは無いとは思いますが。
おそらくNHKは将来的には動物と合戦シーンは全てオールCGでやろうと目論んでいる気がしますよ。確かにエキストラもロケもしなければ経費は浮くでしょうが、なら受信料巻き上げるのはやめて欲しい。気になるのは再来年の大河が蔦屋重三郎だということ。えーこれってスペシャルドラマでよくありません。意図的に合戦シーンを避けてるとしかもう思えない。最近のNHKには本当に憤りしかない。若者に媚びすぎです。でも若者はNHKなんて見ない。みるのは受信料払わされている私のようなおじさんなのに。
次のコメントの書き込みが最終話で無いことを自分でも祈ってますよ(笑)。
一昨年だったか、このドラマの時代考証担当の小和田哲男先生の講演を聞いたのですが、先生は『麒麟がくる』の時代考証もされていたのですが、コロナの影響で、合戦シーンが大幅にカットされてしまったとおっしゃってました。
わたしは当ブログで、光秀の丹波攻めをまったく描かずに、光秀に直接関係のない蘭奢待の話とかで尺を取っていたことを酷評したのですが、のちの小和田先生の話を聞いて、ああ、丹波攻めを描かなかったのは、そういう理由だったのか、と、ちょっと腑に落ちました。
あの年はコロナ1年目で過剰に感染対策が厳しかった年でしたが、今でも、エキストラの人数制限とかはやはりあって、合戦シーンの撮影はなかなか難しいようです。
CGやVFXを多用しているのは、そういう背景もあるのかなぁと。
なので、そこはあまり言わないようにしています。
規制なしで思いっきり撮影したいのに出来ないジレンマが、制作陣にもあるんじゃないかと思うので。
ただただ、基本的に脚本が面白くない!!!
わたしの不満はこの一点につきます。
蔦屋重三郎って人自体、わたしほとんど知らないんですよ。
なので、批判しようがありません。
ただ、来年が紫式部、再来年が蔦屋重三郎では、コアな大河ファンはフラストレーション溜まりまくりですよね。
武将や政治家だけが大河ドラマの主人公というわけではないのでしょうが、こういう箸休めの主人公は10年に一度ぐらいにしてほしいですね。
それとも、この人物選びにも、コロナのご時世が影響していたのでしょうか。
ただ,それであるなら前回の「阿月」は何だったのかという話ですよね。いや,個人的には阿月のストーリー自体には否定的なのですが,それは「前回コンフェイト食べた以外に特に出番もなかったほぼ初登場のオリジナルキャラが突然活躍すること」に対して否定的という意味であって,名もなき侍女にフォーカスするというコンセプトが必ずしも悪いとも思わず,またこのエピソードに感動する方が一定数いるということも理解はできます。ただ「阿月」だろうが「(いわゆる定番の)小豆袋」であろうが…とりあげるからには金ヶ崎(阿月が命をかけた結果,ことの顛末)をきっちり描かないと…鎌倉殿最終話の政子様じゃないけど「ダメよ,脚本家は…ちゃんと自分の書いたストーリー(やキャラ設定)は覚えていないと…」と言いたくもなります。(いや,もちろん覚えていないわけじゃないでしょうけど…もしかしたら脚本家と演出,歴史考証担当の間で,あるいは複数人いると思われる演出家同士の間で意見が食い違っていて…その結果としてこういう「カオス状態」になっているのでしょうか…。)
正直第12話までは「ここ最近で出色の出来である『鎌倉殿』や直近の戦国もの『麒麟』ほどの出来ではないが…隊が史上最悪(私にとっては失礼ながら『江』『花燃ゆ』がこれにあたる)とまでは言わない」くらいでしたが…正直この第14話から第15話にかけて「今後の展開次第ではワースト更新あるぞ」になってきました。
>「ダメよ,脚本家は…ちゃんと自分の書いたストーリー(やキャラ設定)は覚えていないと…」
爆笑。
まさに、我が意を得たりです(笑)。
わたしは、『鎌倉殿』は最大級に評価していますが、『麒麟』は評価していません。
また、『江』は駄作だと思っていますが、『花燃ゆ』は巷で言われていたほど悪い作品だったとも思っていません。
そのあたりの私見は、それぞれの作品の総評を読んでいただければ幸甚です。
ただ、「今後の展開次第ではワースト更新あるぞ」というご意見は、かなり高い確率で同意します。
花燃ゆは…基本的に女性主人公ものは申し訳ないのですが,その時点で私の中では評価が低く…篤姫は「奇跡」だと思っているくらいなので…そういう意味でのバイアスは考慮すべきでしょうけど…まあ,また別の機会にコメントします。
そう、女性主人公というだけで敬遠する方がおられますが、わたしは、なるべくそういう先入観は持たないようにしています。
まあ、「利家とまつ」以降、1年おきに女性主人公となったときは、ちょっと多すぎとは思いましたけどね。
まあ、評価はひとそれぞれですんで、わたしと違う評価を否定するつもりはありません。
ところで,浅井長政を好演された大貫勇輔さんが自身のSNSで発表されたそうですが,その浅井長政はこの第15回以降登場されないそうですね。「史実」では武田信玄の死後に自害する…つまり第18話までは存命のはずですが…こういうところなんですけどね。結局この脚本家にとって「ドラマのキャラクター」は「駒」なんでしょうね。家康と信長の間に亀裂を生じさせるという「役割」が済んだから「終了」といった感覚なのでしょう。
お市の方も…前回織田と浅井の戦争を避ける…ために阿月が命がけで走ってくれたのに,突然「こうなったら織田を討ちましょう」って,いや誰のせいだよ,というか阿月無駄死にやん…このドラマの登場人物はみんな記憶障害か多重人格のどちらかなんでしょうかね?
こういうわざとらしい伏線は白けるだけだから止めてほしいんですがね。
別に言い訳がましいとはぜんぜん思いませんが・・・。
基本的には同じ考えです。
ただ、女性主人公だからダメっていう見方はしないようにしているというだけで・・・。
先ほど19話をい見ましたが、長政出てこないまま死んじゃってましたね。
まあ、金ヶ崎の退口や姉川の戦いには家康は参戦していますが、その後の小谷城攻めには家康はかかわっていないので、そこは省略という選択は間違っていないとは思います。
ただ、じゃあ、お市の方も家康とはほとんど関わりのない人物ですから、いらないですよね。
そこを無理やり幼馴染という設定にしてしつこく出して来る意図がかわりません。
北庄城の戦いにも家康は関わらないですしね。
ただ、お市の娘たちとは深くかかわることになりますから、そのための伏線なのかもしれませんが。
しかし、これは明らかな論理矛盾があります。
何故ならば、攻撃開始のタイミングが早いと不利を悟った敵が撤退していく際、敵は短い時間で味方の射程圏外に脱出してしまうからです。
実際、『孫子』地形篇ににおいても「我出而不利彼出而不利曰支支形者敵雖利我我無出也引而去之令敵半出而擊之利」(拙訳「我が方が撃って出ても不利で敵が撃って出ても不利なのが「支」の地形である。敵が利益で釣っても我が方は撃って出てはならない。後退し、敵が半分ほど出てきたところを攻撃すれば有利である。」)と記載があります。
姉川の戦いは姉川を挟んでの戦いであり、河川を渡る際は船でゆっくりこっくり的になりながら渡るかさもなくば限られた渡河点で大軍が大渋滞を起こしながら敵の的になりながら渡るしかないので、まさに「我出而不利彼出而不利」、つまり「支」に該当します。
そして、もし川岸で待ち構えている部隊(ここでは家康軍)が早いタイミングで射撃を開始してしまったら不利を悟った朝倉軍は退却を開始し、殆ど損害を受けることなく帰陣してしまいます。だから渡河を終了した敵兵と後続する渡河中の部隊で敵が大混雑を起こしている「敵半出」の状況で攻撃開始するよう孫子は言っているのでしょう。
ですからこの場合、明智光秀は「攻撃開始の時機を焦ったのではないですか。三河殿はこういう大戦はあまり経験がありませんからな。こういう時は敵を逃がさぬよう、充分引き付けてから火蓋を切るものですよ。」とでも言うべきでした。
そして、戦国武将の明智光秀がこのような初歩的な兵法を知らないはずがありません。
ここでも「制作陣不慮之次第」です。