鎌倉殿の13人 第31話「諦めの悪い男」 ~比企の乱~ : 坂の上のサインボード
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鎌倉殿の13人 第31話「諦めの悪い男」 ~比企の乱~

 源頼朝の死後、梶原景時の変や阿野全成事件の背後で対立を深めていった北条比企でしたが、建仁3年(1203年)92日、ついに決着が着くときがやってきます。「比企の乱」「比企能員の変」などと後世に呼ばれるこの政変により、比企氏は滅亡しました。ところがこの事件、北条が勝って比企が敗れたという結果は明確なものの、その過程については、『吾妻鏡』『愚管抄』という二つの重要な史料が正反対のことを記しています。まずは『吾妻鏡』の記述から見てみましょう。


鎌倉殿の13人 第31話「諦めの悪い男」 ~比企の乱~_e0158128_21560926.jpg建仁3年(1203年)720日、将軍源頼家が突然で倒れ、8月になって危篤状態となったため、幕府内で後継者問題が話し合われました。本来であれば頼家の長男である一幡が跡を継ぐところですが、このとき一幡はまだ6歳。そこで、頼家の弟で12千幡を後継にという声があがります。前話までも繰り返し触れてきたとおり、一幡の背後には比企がいて、千幡の背後には北条がいました。そこで、827日、全国惣守護関東28カ国の国地頭職を一幡が、関西38カ国の国地頭職を千幡が継承するという、分割相続に決定しました。これが事実なら、妥協案だったといえるでしょう。ところが、これを受け入れられるはずがなかったのが、一幡の外祖父である比企能員でした。


鎌倉殿の13人 第31話「諦めの悪い男」 ~比企の乱~_e0158128_21324530.jpg 92日朝、比企能員は娘の若狭局を介して病床の頼家に分割相続を阻止するよう働きかけました。頼家は病床に能員を呼び寄せ、談合のすえ、北条時政追討を命じます。しかし、このときたまたま隣の部屋にいた北条政子が障子越しにこの密談を耳にし、すぐさま使者を時政のもとへ送りました。報せを受けた時政は、やられる前にやると決断。大江広元の屋敷を訪れて能員討伐の計画を伝え、消極的賛同をとりつけます。そしてその日のうちに時政は能員のもとに使者を送り、時政の名越邸で行われる薬師如来像の供養会への参列を求めました。能員の家臣たちは「危険です」「せめて甲冑を」と諫めたといいますが、能員はこれを振り切って僅かな供を連れて北条邸に出向き、そこで天野遠景、仁田忠常によって殺害されます。そしてその直後、政子によって「比企は謀反人」という宣言が下され、一幡の小御所に押し寄せた北条義時、泰時、平賀朝政、畠山重忠ら追討の大軍によって、比企一族は滅ぼされました。


 というのが、『吾妻鏡』の伝えるところです。しかし、障子越しに政子がたまたま密談を耳にしたとか、あまりにも話が出来過ぎているように思えますし、謀反を企てている能員が、丸腰同然で敵の邸に乗り込むというのも、不自然な気がしますね。では、つづいて『愚管抄』の記述を見ながら、『吾妻鏡』の矛盾点をあぶりだしていきます。


鎌倉殿の13人 第31話「諦めの悪い男」 ~比企の乱~_e0158128_18070729.jpg そもそも『愚管抄』には、頼家の病気の話は出てきても、分割相続の話は出てきません。病で将軍を続けられないと悟った頼家は、息子の一幡に跡を譲った、とだけ記されています。また、頼家が倒れたのは、大江広元の屋敷だったと記されています。頼家がそのまま動いていないとすると、頼家と能員が密談した場所と、時政が広元に比企討伐を相談した場所が同じということになります。頼家が寝ている屋敷でそんな話をするでしょうか? そう考えると、頼家と能員の密談そのものが胡散臭い気がしますね。また、『吾妻鏡』には、「謀反の間、未三剋、尼御台所の仰せにより、件の輩を追討がため、軍兵を差し遣わさる」と、比企の謀反を宣言した政子の命令で討伐の軍勢が派遣されたと主張しているのに対し、『愚管抄』には、「サテ本躰ノ家ニナラヒテ子ノ一万御前ガアル、人ヤリテウタントシケレバ、母イダキテ小門ヨリ出ニケリ、サレドソレニ籠リタル程ノ郎等ノハヂアルハ出ザリケレバ、皆ウチ殺テケリ」と記されており、時政は能員を殺害したあと、手勢を集めて小御所を襲わせたとのみ伝えています。つまり、『吾妻鏡』の伝えるところを信じれば、比企の乱はあくまで比企氏の謀反の鎮圧だったということになり、『愚管抄』の記述に従えば、北条による軍事クーデターで比企を滅ぼしたことになります。


 この二つの史料、どちらを信じるべきでしょう。客観的に見ると、『吾妻鏡』の記述に無理があるように思えますね。この時点では一幡を擁している比企の方が明らかに優位にあり、謀反を企てる動機がありません。一方の北条は、もし頼家が死んで一幡が鎌倉殿になると、いよいよ将軍家との結びつきが薄くなって比企に後れを取ってしまう。謀反を起こす動機なら、比企より北条の方がはるかにあったといえます。逆に言えば、能員を謀殺するという非常手段を北条に決意させるほど、当時の鎌倉幕府内において比企が力を持っていたといえるかもしれません。劣勢に立たされた北条は、能員を殺すしかなかった。一方の能員は優勢に立っていた余裕から、堂々と時政の屋敷を訪れた。と考えれば、筋が通ります。だとすれば、殺されたのは能員の油断だったとしか言いようがありませんね。


 ドラマは、基本ベースは『吾妻鏡』でしたが、頼家と能員の密談はなく、したがって政子の関与もありませんでしたね。そもそもドラマの能員は頼家との関係もうまくいっておらず、頼家の死を望んでいたという設定。これは新解釈ですね。実際のところはどうだったかわかりませんが、頼家が死んで一幡が鎌倉殿になると、尼御台所という立場が政子から能員の娘の若狭局に移ることになり、比企の権勢はますます盤石になっていたでしょうから、早く一幡の世になってほしいと願っていたというのは、あながち的外れではないかもしれません。とはいえ、一幡はまだ6歳。まだ頼家に死んでほしいとまでは思っていなかったんじゃないでしょうか。この時点で比企は北条より優位に立っていたわけですから、焦る必要はありません。むしろ、焦っていたのは北条だったのではなかったかと。


 いずれにせよ、「比企の乱」「比企能員の変」といった名称は、北条の世になった後世に作られたもの。実像は「北条の乱」だったのかもしれません。



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by sakanoueno-kumo | 2022-08-16 19:11 | 鎌倉殿の13人 | Trackback | Comments(8)  

Commented by waku59 at 2022-08-16 19:45
いつも記事を楽しみにさせていただいています。

「こんなゆっくりとしたペースで果たして大丈夫?」
これまで大河ドラマはえてしてこんな感じが多いのですが。

今回はまったくそういう心配なく。安心して
ハラハラドキドキさせていただいてます(笑)
Commented by sakanoueno-kumo at 2022-08-17 00:20
> waku59さん

過分なお言葉ありがとうございます。

おっしゃる通りですね。
三谷さんの作品って、映画でもドラマでも、伏線をたくさん散りばめて、それを結末に向けて回収していくという推理小説のような構成が多いですよね。
これは想像ですが、きっと三谷さんは、物語の構成を最終回から逆算して作っていっているように思えるんですね。
だから、彼の作品に関して、ペース配分を間違えて後半駆け足とかには絶対ならないんじゃないかと。
だから、三谷作品は最終回まで観たら必ずカタルシスを得ることができます。
おっしゃるように、安心して観ていられますよね。

ただ、例えば昨年の『青天を衝け』なんかは、前年の麒麟がコロナの影響で翌年まで食い込んだり、オリンピックの1年繰り越しなどもあって、当初の予定より4、5話削られたと脚本家の大森美香さんが嘆いておられましたから、もし、今年もコロナなどの何らかの影響でそんなことになったら、さすがの三谷さんも対応できなかったでしょうね。
そうならないことを祈っています。
Commented by nekonoheyah at 2022-08-17 07:29
おはようございます。
どっから 来ちゃったんですか?(広島弁)
確かに 鎌倉殿~は面白いです。
6月末に緊急で入院して、7月あたりから見始めたのですが
見なかったことを後悔しました。
面白い。
役者がイイです。
ほうほう、こんな大物が!という歌舞伎の役者さんが。。。。比企をやってるジローさんの あの 不気味な
悪役顔。すっかりハマりました。

Commented by sakanoueno-kumo at 2022-08-18 00:46
> nekonoheyahさん

コメントありがとうございます。
はて? どっから来ちゃったかわかりません。(笑)

今年の大河は近年では一番の名作だとわたしは思っています。
途中からでも見てくださいねー!
Commented by heitaroh at 2022-08-30 18:31
比企の謀殺は私も謎だったんですが、「頼家と能員が密談した場所と、時政が広元に比企討伐を相談した場所が同じ」だという貴兄の一文で腑に落ちました。
大江はこの機会をとらえ、北条と共謀。
北条の兵を大江屋敷に忍ばせた上で、「頼家の意識が戻った。舅殿と話がしたいとお呼びである」とでも言って呼び出し、出てきたところを襲撃して殺害した・・・と。
比企も、北条の屋敷なら、用心して招きに応じることはないでしょうが、相手が武士ではない大江の屋敷であるということで油断。
さらに、頼家から呼ばれて、兵を率いて向かうわけにもいかず・・・。
大江になぜ、そこまでする動機があったのかはわかりませんが、義時の実力に一等群を抜いたものを感じていたということもあったのかもしれませんね。
Commented by sakanoueno-kumo at 2022-09-01 20:24
> heitarohさん

なるほど。
でも、『吾妻鏡』では、大江は時政から比企討伐の相談を受けたとき、反対も賛成もせず、今一度熟慮するように、とだけ答えているんですよね。
それを、時政が、もう熟慮したとして強行しちゃうわけで・・・。
もし大江が積極的に関与していたのなら、侍所別当の賛同があったから殺ったと、『吾妻鏡』は声高に喧伝するんじゃないでしょうか。
大江は梶原景時襲撃のときも、同じようにどっちつかずな態度をとっていますよね。
もとは都人だったといいますし、そういう当たり障りのない性分が、13人のなかで一番長生きできた理由なんでしょうね。
Commented by heitaroh at 2022-09-02 11:19
でも、そこは脅迫されたとは考えられませんか?
大江は都人であり、かつ、政治家で官僚でしょうから、自分の立場の危うさを重々知っており、間違っても、彼らの陰謀に巻き込まれたくなかったと。
しかし、それだけに、彼の屋敷には歴戦の軍人などはなく、わずかな警護の者がいただけであったから、押し入ってきた北条時政を排除できたか。(どうやって、武装兵士を邸内に入れたかという問題は残りますが。そう考えれば、やはり、大江の積極的関与があったと考えるべきでは。)
大江も療養中の頼家が自分の屋敷にあるという時点で、危険は感じたでしょうが、まさか、時政がそこまでするとは思わなかった・・・のではないかと。
時政もそこまでした以上、拒めば大江に危害を加えることは必定。
大江はここに至り、比企か北条かの二者択一を迫られたのではないでしょうか。
と言って、危険を顧みず、逃げ出してまで比企に肩入れするほどの理由もなく。

吾妻鏡の記述は参考以上のものではありませんから。
Commented by sakanoueno-kumo at 2022-09-02 22:11
> heitarohさん

北条に脅されたというのは、十分に考えられると私も思います。
梶原景時の粛清のときも、大江は和田義盛に詰めよられて脅されていますしね。

わたしも『吾妻鏡』の記述は参考程度というか、噓八百がたくさんあると思っています。
北条政権になってから書かれた北条のための記録ですからね。
でも、だからこそ、比企討伐は大江をはじめとする有力御家人の総意に従ってやったんだ、と、もっと言いそうなもんだと思うんですよね。

大江が比企か北条かの二者択一を迫られたというのは、わたしもそう思います。
でも、梶原景時のときと違って、どちらが勝つか、どちらに着くのが得かの判断が難しかったんじゃないかと。
それが、明言を避けるような返答になったんじゃないかと。
脅されて無理やり賛同させられたというのはたしかにありそうな話ですが、であれば、大江の賛同を得た、と、『吾妻鏡』に書きそうなもんじゃないかと。
その方が比企討伐を正当化できますからね。

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