青天を衝け 第41話(最終回)「青春はつづく」 ~ワシントン会議、関東大震災、栄一の死~ : 坂の上のサインボード
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青天を衝け 第41話(最終回)「青春はつづく」 ~ワシントン会議、関東大震災、栄一の死~

 ついに最終回を迎えました。前回につづいて15分拡大版となった最終回は、栄一の4回目の渡米大隈重信原敬の死、孫の渋沢敬三の結婚、関東大震災中華民国の支援、そして栄一の死まで、盛りだくさんの内容でしたね。今回は長くなりますが、最終回ということで2回にわけずに一気にいきます。


青天を衝け 第41話(最終回)「青春はつづく」 ~ワシントン会議、関東大震災、栄一の死~_e0158128_16432517.jpg 大正10年(1912年)10月から翌年の1月にかけて、渋沢栄一4回目の渡米を果たしました。御年82。その老体に鞭打って渡米した目的は、11月から行われるワシントン会議を実見するためでした。「ワシントン会議」とは、アメリカの第29代大統領のウォレン・ハーディングが主催した国際的な軍縮会議のこと。世界史上初の軍縮会議でした。参加国はアメリカ、イギリス、日本、フランス、イタリア、中国、ベルギー、オランダ、ポルトガルの諸国で、軍縮の対象は、主として軍艦でした。日本政府は海軍大臣の加藤友三郎を主席全権、駐米大使の幣原喜重郎、貴族院議長の徳川家達を全権として派遣し、アメリカ海軍と日本海軍の比率を107を限度とするよう指令していました。日本の軍部はそれが気に入らなかったんですね。栄一は軍縮会議が決裂しては日本のためにならないと思い、個人的に会議の成功を援護するべく渡米したわけです。


青天を衝け 第41話(最終回)「青春はつづく」 ~ワシントン会議、関東大震災、栄一の死~_e0158128_21444950.jpg 渡米に先立ち、栄一が病床に伏していた大隈重信を見舞いました。このとき大隈が、「アメリカとの戦争だけは絶対に避けてくれ」と栄一に頼んだというのも実話です。あるいは、このとき二人はこれが今生の別れになるかもしれないと感じていたかもしれませんね。


栄一が東京駅を出発したのは1013日。東京駅には、時の総理大臣の原敬をはじめ、大勢の閣僚や政治家、財界人らが見送りにきました。このとき原総理が「お身体をご大切に・・・」と手を差しのべたのに対して、栄一も「ありがとう・・・」と握手を交わしました。その原敬が、こののち1ヶ月足らずの114日に、同じ東京駅で刺客の凶刃に倒れようとは夢にも思わなかったことでしょう。


 ワシントンで栄一は、加藤、徳川、幣原ら全権と面会してアメリカに同調するよう意見し、ハーディング大統領とも会見しました。その後、ニューヨークに移って世界有数の食品メーカーとして知られるハインツの社長、ハワード・ハインツ会っています。ハワードの父・ヘンリー・ジョン・ハインツとは2回目の渡米のときに親交を深めた仲で、このときヘンリーは他界していましたが、ハワードとともにヘンリーの墓参りをしました。そしてその後フィラデルフィアに行き、アメリカのデパート王であるジョン・ワナメーカーにも会っています。ニューヨークとワシントンでは、大演説も行いました。また、2回目の渡米のときに会見したウィリアム・ハワード・タフト元大統領とも面会し、旧交をあたためました。まさに民間外交ですね。


 その後、ロサンゼルス、サンフランシスコに立ち寄って帰国の途についたのは110日。この日、大隈重信の訃報が届きました。この2ヶ月前には、原敬の暗殺の報せも届いていました。かつて伊藤博文の訃報が届いたのも、栄一の渡米中でした。アメリカで訃報にふれるたびに伊藤のことを思い出したんじゃないでしょうか。


 栄一の帰国後の大正11年(1913年)26日、ワシントン会議において、3万トンクラスの大きい軍艦の保有率アメリカとイギリスが5、日本が3、フランスとイタリアが1.67とするワシントン海軍軍縮条約が締結され、また、アメリカ、イギリス、フランス、日本による太平洋に関する四か国条約、全参加国による中国に関する九か国条約などが成立しました。日本は当初の目標だった7割を確保できなかったんですね。また、四か国条約の成立に伴い、長年続いていた日英同盟が廃棄されることとなりました。


 大正12年(1914年)91日に発生した関東大震災では、当然ながら栄一の事務所や自邸も大きな被害を受けました。地震発生時に事務所にいた栄一が、危うく天井から落ちてきたシャンデリアの下敷きになりそうだった話も述懐どおりです。もっとも、ドラマの栄一のような機敏な動きは、御年84歳の栄一にはできなかったでしょうが(笑)。その後、栄一の眼前で事務所は火災に巻き込まれ、編纂中の徳川慶喜伝記の史料も消失してしまいました。栄一はそれを持ち出さなかったウカツさをたいそう悔いていたそうです(しかし、伝記はのちに完成)。その後、不気味な余震が続くなか、庭に急造された丸太小屋の寝床で大きなイビキをかいて眠り、周囲を呆れさせたという話も実話です。なるほど、大きな仕事をする人は、無駄な神経を使わないものだ・・・と、栄一の四男・秀雄は思ったそうです。また、高齢の栄一を心配し、しばらく郷里の血洗島に帰ってはどうかと提案した息子たちを「馬鹿なことを!ワシのような老人はこんなときに働いてこそ、生きてる申し訳が立つようなものだ!」と言って叱責したという話も実話です。このドラマは隅から隅まで実話しか描いていません。


 地震後まもなく、栄一は内務大臣の後藤新平からの要請で、仮設住宅仮設病院の急造など、善後策に尽力しました。また、30名の貴衆両議員と20名の実業家からなる大震災善後会が発足し、会長は徳川家達、そして栄一が副会長に就きました。84歳の栄一は、老いを忘れて焼け野原を駆け回っていました。


 昭和6年(1931年)夏、中華民国集中豪雨によって大きな被害を受けました。御年91の栄一は、病床にありながらも中華民国水災同情会を設立し、その会長となりました。そして96日、飛鳥山の自邸からラジオに出演して全国に義捐金募集をよびかけました。いまでいえばリモート出演ですね。放送は30分ほどあったそうですが、その3日後の談話によると、「中華民国の水害の範囲は恰度日本の本土の広さに及び、その罹災の人口は一千万人といふ甚だしさである、故にこれを救ふことは人類としての義務であつて、大正十二年の震災に我国が多大の救助を受けたその返礼をすると云ふやうな意味でなく、人道の大義からまた隣邦に対する友誼からさうしなければならぬ、自分が老人のくせに皆さんに呼びかけるのは総て右の如き意味からである」という要旨の内容だったようです。亡くなる2ヶ月前のことです。


 ラジオ放送から2ヶ月後の 昭和6年(1931年)1111日、ついに栄一は永遠の眠りにつきました。享年92(満91歳没)。大往生といっていいでしょう。栄一逝去の報に接し、新聞やラジオは大々的に報道。織るような弔問客。そして1014には昭和天皇の勅使、香淳皇后貞明皇太后の使者が差し遣わされ、天皇より栄一の事績を称えた御沙汰書が下賜されました。


「高ク志シテ朝ニ立チ、遠ク慮リテ野ニ下リ、経済ニハ規画最モ先ンシ、社会ニハ施設極メテ多ク、教化ノ振興ニ資シ、国際ノ親善ニ努ム、畢生公ニ奉シ、一貫誠ヲ推ス、洵ニ経済界ノ泰斗ニシテ、朝野ノ重望ヲ負ヒ、実ニ社会人ノ儀型ニシテ内外ノ具瞻ニ膺レリ、遽ニ溘去ヲ聞ク、曷ソ軫悼ニ勝ヘン、宜ク使ヲ遣ハシ、賻ヲ賜ヒ、以テ弔慰スヘシ。右御沙汰アラセラル。」


  若き日、尊皇攘夷志士となって家を出た栄一。その死に際して天皇陛下からこのようなお言葉を賜るとは、夢にも思わなかったでしょうね。この御沙汰書は喪主の渋沢敬三によって棺の前で朗読されました。何が書いてあるはまったく分からなかった敬三は、初見で朗読したため「具瞻(グセン)」(グダン)と読み間違えたそうですが、それでも列席の人は感泣したといいます。翌月の葬儀の際には、霊柩車の通る沿道に多くの人々が立ち並び、そして告別式への参会者は4万人を超えたといいます。


 後日、行われた追悼式で敬三が語っていた栄一の最後の言葉は、敬三の息子で栄一のひ孫にあたる渋沢雅英氏(現在96歳でご存命)の著書『太平洋に架ける橋~渋沢栄一の生涯~』で亡くなる3日前の言葉として紹介されているものをそのまま引用していました。


「皆様、長い間お世話になりました。私は100歳までも生きて働きたいと思っておりましたが、今度という今度は、もう立ち上がれそうもありません。これは病気が悪いのであって、私が悪いのではありません。死んだあとも、私は皆様のご事業やご健康をお守りするつもりでおりますので、どうか今後とも、他人行儀にはしてくださらないように、お願いいたします。 渋沢栄一」


 栄一は死んだあとも見守ってくれているうようですね。


さて、最終稿はすいぶん長文になってしまいましたが、本稿をもって大河ドラマ『青天を衝け』のレビューは終わりとさせていただきます。1年間、拙い文章にお付き合いいただきありがとうございました。近日中には総括を起稿したいと思っていますので、よければご一読ください。最後に、ナビゲーターの徳川家康の言葉で締めくくりたいと思います。


「皆さんに感じて頂きたいことがあります。真心を込めて切り開いた彼らの道の先を歩んでいるのは、あなた方だという事を。」



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by sakanoueno-kumo | 2021-12-27 22:09 | 青天を衝け | Trackback | Comments(2)

 

Commented by heitaroh at 2021-12-28 15:10
やはり、渋沢雅英翁出ましたね。
健在の人物が初めて出た大河ドラマだったのではないでしょうか。
ちなみに、私の恩師は若い頃、雅英翁に会ったことがあるそうで、「絵に描いたような紳士」だったそうです。
今のうちに、渋沢敬三のことも聞いておいてほしいですが、ここは栄一一色ですからねえ。
Commented by sakanoueno-kumo at 2021-12-30 09:36
> heitarohさん

出ましたね。
赤ちゃんでしたが(笑)。
最後のインタビュー映像がいつのものかはわかりませんが、「絵に描いたような紳士」っていうのは頷けます。

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