青天を衝け 第38話「栄一の嫡男」 ~篤二の非行と栄一襲撃事件~ : 坂の上のサインボード
人気ブログランキング | 話題のタグを見る

青天を衝け 第38話「栄一の嫡男」 ~篤二の非行と栄一襲撃事件~

 前話で三菱との戦いや兼子との再婚が描かれましたが、今回は時代が一気に10年ほど進みました。本話のサブタイルが「栄一の嫡男」なので、まずはその嫡男・渋沢篤二について。


青天を衝け 第38話「栄一の嫡男」 ~篤二の非行と栄一襲撃事件~_e0158128_17220492.jpg 渋沢栄一の次男として明治5年(1872年)に生まれた篤二は(長男は夭折)、渋沢家の嫡男として育てられるも、10歳のときに母・千代と死別すると、継母の兼子にはあまりなつかず、9歳年上の姉の歌子穂積陳重夫妻に育てられました。19歳で学習院中等科を卒業した篤二は、第一高等学校の受検に失敗し、熊本にある第五高等学校に進むことになります。ドラマでは、女遊びに興じていた篤二の生活を改めさせるために歌子と陳重夫妻が熊本行きを提案していましたが、それもあったようです。女遊びについては、父の栄一も息子に偉そうなことは言えなかったでしょうしね。ところが、篤二は今度は熊本でも女を連れて大阪に逃げると言う駆け落ち騒動を起こしてしまいます。そこで栄一は篤二を表向きは病気という理由で退学させ、自身の故郷である血洗島で謹慎させます。翌年、謹慎生活を終えた篤二は、華族の娘・敦子と結婚しますが、のちに彼はまたまた大事件を犯すことになるんですね。その話は次回かその次ぐらいでしょうか。


青天を衝け 第38話「栄一の嫡男」 ~篤二の非行と栄一襲撃事件~_e0158128_16424269.jpg 栄一が暴漢に襲われた話は実話です。明治25年(1892年)1211日、栄一は伊達宗城の病気を見舞うために馬車で向かう途中、突如物陰から二人の暴漢が抜刀で現れ、その一人が馬車馬の脚を斬りつけました。その隙きにもうひとりが馬車の中へ突きを入れてきたため、窓ガラスが割れ、その破片で栄一は指を怪我しますが、それ以上の攻撃を受けることはなく、その場を逃れました。栄一の回顧談によると、ひとまず懇意にしていた越後屋呉服店(三越百貨店の前身)へ立ち寄って手当を受けますが、栄一が帰宅しようとすると、周囲の人たちは護衛なしに帰宅するのは危険だといいます。しかし、栄一は、もし暴漢に本当の殺意があれば、あんな手ぬるい襲い方はしないはずだといい、おそらく暴漢たちは誰かに扇動されて金をもらった手前、脅しに刀を振り回しただけに違いないと考え、護衛なしに帰ったそうです。そうは言っても、たった今暴漢に襲われたところですからね。普通なら足がすくんで動けなくなりそうですが、そこは、まだまだこの時代の男たちはサムライだったんですね。


 当時、栄一は東京の市参事会員になっていました。政治には関わりたくないと言っていた栄一でしたが、市政の規約でそれに選ばれた者は辞退できなかったからでした。この頃、東京市では水道敷設の話が持ち上がっていました。栄一は公衆衛生の必要上、市がやらなければ会社を設立して自身がやろうと思っていたほどでしたから、もちろん賛成しました。ところが、水道の鉄管を外国製にするか国産品にするかで議論が対立します。国産品を主張する派は、新規に鋳鉄会社を創立して東京市の需要に応じようという計画を立て、そこに栄一にも参加してほしいと懇請してきました。しかし、以前ガス会社の鉄管で、国産品の粗悪なことをよく知っていた栄一は、外国製にすべきだと主張します。すると国産品派は栄一を敵視し、「渋沢は外国企業からコンミッションをもらっている売国奴だ!」と演説会や新聞紙上で非難しました。当時は日清戦争の2年前で、日本の国家意識が盛り上がってきていたときで、また、維新以来の西洋崇拝に対する反動が起きていた時代でした。しかし、一点のやましいところのない栄一は、自説をひるがえしませんでした。そこで敵方は、暴漢を雇って襲わせた・・・というのが真相だったようです。


 結局、水道管は国産品となり、彼らは無理に鋳鉄会社を設立し、強引に製品を東京市に売りつけました。その結果、数年後には至るところで水道管の水漏れが発生し、結局水道管は外国製に埋め替えられることとなります。東京市は無駄な損失を被ることとなったんですね。栄一の見解が正しかったことが証明されました。


 また、栄一の四男・渋沢秀雄の著書『父 渋沢栄一』によると、明治32年(1899年)に暴漢の1人が出獄した際(もう1人は獄中死)、その男は一度栄一に面会して謝罪の言葉を述べたそうで、その際、「実はあのとき私に襲撃を依頼した人物は何某で・・・」と言いかけたのを、栄一は「今さらそんな名前を聞く必要はない」とさえぎって、彼の窮状を聞いた上で何がしかの更生資金を与えたため、彼はひたすら恐縮したというエピソードが記されています。さすがは『論語』の推奨者である栄一。「悪其意、不悪其人(罪を憎んで人を憎まず)」ですね。


 渋沢家では、次女の琴子が大蔵省職員と結婚、栄一の妾のくにの子供・文子は、尾高淳忠の次男・次郎との結婚が決まりました。この次郎と文子のに当たる音楽家の尾高忠明氏が、この『青天を衝け』オープニングテーマ音楽の指揮者をされている方だという話は以前しましたよね。すごい繋がりです。また、ドラマではこれを機にくにが新たな人生を送るため渋沢家を出るという話になっていましたが、新たな人生とはどういうことかは具体的に説明されませんでした。実はくには、栄一の大蔵省時代からの友人の織田完之が妻に先立たれると、その後妻として嫁いでいます。今じゃ考えられないですね。江戸時代なら、お殿様の側室を家臣の妻に払い下げるということはありましたが(この場合、断れなかったでしょうし)、友人の妾を自分の妻にもらうなんて、ふつうでしょう。わたしは無理です(笑)。この時代、後妻さんを娶るというのは家政婦さんを雇うような感覚だったのでしょうか?


 徳川慶喜30年ぶりに東京に戻ってきましたね。この話は次回にじっくり描かれそうなので、来週の稿に譲ります。



ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓



更新を通知する


by sakanoueno-kumo | 2021-12-06 17:24 | 青天を衝け | Trackback(2) | Comments(6)

 

Tracked from 平太郎独白録 親愛なるア.. at 2021-12-07 18:56
タイトル : 渋沢栄一最大の暗殺未遂事件
「渋澤栄一の家系図には立体図がいる」と言った人がいます。つまり、彼の家系図には先妻後妻の子の他に、渋沢を名乗らせていない子供もおり、実際には公式発表の倍もいたという話も。で、それらを踏まえた上で、「人は生命の危機に陥ると子孫を残そうとする本能が働く」といいます。この点は、そういう事例はたくさんあるのですが、生々しいので敢えて申しません。が、ただ、安全なところに身を置いている我々現代人が軽々に言うことでもないのではないかな?と。事実、栄一は他の志士ほどではないにせよ、それでも何度か危険な目にあっており...... more
Tracked from 平太郎独白録 親愛なるア.. at 2021-12-09 15:59
タイトル : 「山座の前に山座なく、山座の後に山座なし」
親愛なるアッティクスへ山座円次郎という人物をご存じでしょうか。慶応2年(1866年)、筑前福岡藩の足軽の次男として福岡に誕生。その後、藤雲館(現在の福岡県立修猷館高等学校の前身)、共立学校(開成中学・高校の前身)、東京大学予備門(旧制第一高等学校の前身)を経て、東京帝国大学法科を卒業後、外務省に入省。特に東京大学予備門時代の同期生には、夏目漱石、正岡子規、南方熊楠、秋山真之らがおり、中でも、南方熊楠とはその後も親しく付き合っていたといわれています。山座は、そのあまりの有能さゆえに、秀才揃いの外務官僚...... more
Commented by heitaroh at 2021-12-06 17:49
歌子さんも琴子さんも、良い人に描かれてましたが、ここの一族は篤二の以外は、誰に似たのか気が強い(笑)。
琴子おばさんのあだ名は「西太后」だったそうです(笑)。
Commented by sakanoueno-kumo at 2021-12-06 19:04
> heitarohさん

西太后(爆)。
たしかに、歌子の写真を見ると、気が強そうな顔してますもんね。
琴子もきっと姉妹だから似たような顔だったのでしょう。
渋沢秀雄氏の著書では、二人の姉は理論家兼実際家だったといい、弟の篤ニを愛おしく思う分、忠告は熱烈の度を加えていったと書かれていました。
また、そんな姉たちが後押ししてか、篤ニの妻の敦子も、篤ニに強い態度だったと。
ドラマでは、偉大な父の跡継ぎとしてのプレッシャーに押しつぶされて芸者遊びに入れ込んでいたように描かれていましたが、篤ニの非行の本当の理由は、姉たちだったかも(笑)。
Commented by heitaroh at 2021-12-09 16:00
もう一つ、篤二が血洗島にいるときに、血洗島の栄一の実家が火事で燃えてますよね。
あまりにもタイミングがいいので、田舎を出たい篤二がやったという可能性はあるのでしょうか?
Commented by sakanoueno-kumo at 2021-12-09 17:29
> heitarohさん

実家の火事の話は知りませんでした。
秀雄さんの本にも栄一の自伝にも載っていなかったと思うので・・・。
さすがにお詳しいですね。
篤二が火をつけたとしたら、これは駆け落ち騒動とかのレベルじゃないですよ!
犯罪なわけで・・・。
この時点で廃嫡になっていたんじゃないでしょうか?
Commented by heitaroh at 2021-12-09 18:26
当時の渋沢家のそれを読んでいて思うのが、とにかく、栄一よりも、むしろ、その周囲の人たちの、「家名に傷をつけまいとする姿勢」でして。
後に、敬三は二高を受けますが、理由は「栄一の後嗣たる者が一高に落ちたとあっては家名に傷がつく」だったそうです。
(篤二が五高に行ったのも然りではないかと。武之助、正雄、秀雄は全員、一高から東大です。)
篤二の廃嫡の時も、本人より周囲の方が激しく抵抗したようですし、臭い物に蓋をしたのでは。
Commented by sakanoueno-kumo at 2021-12-10 00:01
> heitarohさん

なるほど。
元は武家ではなく豪農なのに、家名をそんなに重んじるんですね。
いや、むしろだからこそなんでしょうか?

<< 近江佐和山城攻城記。 その1 ... 出張!お城EXPO in 滋賀... >>