青天を衝け 第37話「栄一、あがく」 ~三菱汽船vs共同運輸~
明治13年(1880年)に渋沢栄一が三井物産会社社長の益田孝らと共に設立した東京風帆船会社は、岩崎弥太郎が経営する三菱汽船の妨害を受け、うまく軌道に乗りませんでした。そこで、明治15年(1882年)7月に農商務大輔・品川弥二郎の勧告で、東京風帆船会社、北海道運輸会社、越中風帆船会社の3社が合併し、新たに共同運輸会社という汽船会社を設立。栄一もその発起人の一人となります。新会社の資本金は600万円で、そのうち260万円が政府から出資されました。なぜ政府がそこまで肩入れしたかというと、三菱の海運業独占に対抗するためでした。
かつては政府と蜜月の関係だった三菱会社でしたが、前年の「明治十四年の政変」で三菱と密接だった大隈重信が野に下ると、政府の三菱に対する態度が一変します。そこへ品川が農商務大輔に就任し、政府の三菱圧迫は露骨になりました。以前から反三菱だった外務卿・井上馨の意を受け、大隈が下野後に組織した改進党と、その金穴たる三菱に弾圧を加えました。また、ドラマでも描かれていたように、自由民権運動の盛り上がりのなか、世論も三菱批判の声が高まります。
しかし、それに対して三菱もむろん黙ってはおらず、新聞に対して反論を掲げます。いわく「三菱は海運業を独占してはいない。他社の汽船が何十艘もある。仮に三菱が横暴で運賃が高いとしても、それを押さえるだけの法律は備わっている。政府は何のために新汽船会社の設立を援助するのだ!」と。そして、大隈の改進党も、党の機関新聞で共同運輸会社を非難しました。しかし、一般に反三菱感情が高まっていたため、世論は共同運輸を応援しました。そして改進党の政敵である自由党は、「自由新聞」で三菱を激しく叩き続けました。三菱vs共同は、改進党vs自由党でもあったんですね。自由党の星亨は弥太郎を「海坊主」と呼び、海坊主と結託して私利を営む改進党を「偽党」と罵り、全国至るところに自由党員を派遣して、「海坊主退治」と「偽党撲滅」の大演説会を開き、その会場で紙製の船を焼き、海坊主に象った藁人形を壊し、「海坊主滅ぶ」と絶叫して痛快がったそうです。こうなると、もはや子供の喧嘩ですね。
中傷合戦のみならず、本業での戦いも烈しいものとなりました。共同運輸会社開業時点での汽船の数は24艘だったのに対し、三菱は32艘。加えて三菱は海運業に乗り出して10年以上経つため、熟練の船員を数多く有していました。一方の共同は、船員の質も船の数も負けていたものの、老朽船が多い三菱に対して最新鋭の船舶を有していました。そんな両者を世間では「共同には船あって人なく、三菱には人あって船なし」と評したそうです。また、ドラマでも描かれていたように、三菱と共同の運賃値下げ競争は激烈を極め、末期には運賃は競争開始前の10分の1にまで引き下がったそうです。意地と意地のぶつかり合いですね。共同は、わずか6ヶ月間に68万円、つまり資本金の1割強が吹っ飛んでしまいました。もちろん、三菱の受けたダメージを相当なものでした。そこで弥太郎は、共同の株を密かに買い占め、乗っ取りを図ろうとします。これを知った共同はあわてふためき、経営もシドロモドロとなり、株価は額面の3分の2に暴落しました。
ドラマ中、三菱の攻撃に憤慨した共同運輸の面々が栄一を焚き付け、政府の最高権力者である伊藤博文の元へ三菱への掣肘を懇願しにいくシーンが描かれていましたが、あれも実話です。栄一は伊藤に、三菱がいかに悪質な謀略で攻撃してきたかを並べ立てました。すると、一言も口を利かずに聞き終わった伊藤は、こう答えたそうです。
「どうも渋沢君も奇妙な事を言はれる、自分の善い事を言ふのはまづ宜いとしても、それを証拠立てる為めに人の悪い事を挙げると言ふのは、士君子の与しない処である。実に卑怯な行り方である、恁う言ふ事はお互に慎まなければならない。況して君の如きは、事業界から立派な人物だと言はれて居る、恐らく君自身も亦爾う思つて居るに違いない、そう言ふ君からして、恁う言ふ事を言ふやうでは困るじやないか、お互に慎まなくてはならない。」(引用:デジタル版『渋沢栄一伝記資料』)
こう忠言された栄一は、穴があったら入りたいほどの恥ずかしさに、ほとんど顔を上げられなかったと語っています。三菱に灸をすえてもらうつもりが、逆に自分が灸をすえられた形です。もっとも、そこで素直に反省できるところが、栄一の栄一たるゆえんなんでしょう。
三菱と共同運輸との戦いは2年以上に及びました。その心労が祟ってか、岩崎弥太郎は病に倒れ、明治18年(1885年)2月7日、帰らぬ人となります。享年50。胃がんでした。剛腹老獪を絵に書いたような弥太郎でも、やはり神経をすり減らしていたんでしょうね。
弥太郎の死後、三菱の事業は弟の岩崎弥之助に引き継がれました。その後も三菱と共同の戦いはしばらくは続きますが、死闘を続けて損失を重ねた結果、両社ともヘトヘト状態でした。そこで政府も何とかしなくてはならないと、農商務卿の西郷従道が両社に合併を勧告しましたが、三菱の弥之助はこの提案に前向きでしたが、共同運輸は重役全員が反対で、栄一もその一人でした。共同側は利害の打算を超越して、感情的に三菱を憎んでいました。そこで政府は、共同運輸の社長と副社長を退任させ、兵庫県令だった森岡昌純を農商務少輔に任じた上で共同運輸を兼任させました。森岡は社長に就任すると自社の経営状態を精査し、この不毛な競争を終わらせるべく、社内に合併やむなし論を浸透させていきます。そして、明治19年(1886年)7月、共同運輸の森岡昌純と三菱汽船の岩崎弥之助のトップ会談が実現。その席での会話はドラマのとおりで、このまま競争を続けると1年で破産するという三菱に対し、共同は100日で無一文になると答えました。しかし、100日後に三菱が勝ったとしても、満身創痍の状態では外国汽船に止めを刺されるでしょう、と。ここに、両社共に同意を得て、同年10月1日に合併。日本郵船会社という名称で、文字通り新しい船出となりました。
共同運輸会社の話だけでめっちゃ長くなっちゃいましたが、栄一の再婚の話も少しだけ。千代と死別した翌年の明治16年(1883年)、栄一は伊藤兼子という女性と再婚しました。兼子は栄一よりひとまわり下の32歳。彼女は、伊勢八という油屋の主人・伊藤八兵衛の娘で、八兵衛は一時豪商と言われたほどの人物でしたが、商売の手違いで没落したままこの世を去りました。兼子には婿養子がいたようですが、家の没落により離縁となったようです。つまり、栄一と兼子は再婚同士だったわけですね。離婚した兼子は生きていくために芸妓の道に進みますが、そこで栄一を紹介されます。それまでにも兼子には縁談がいくつかあったようですが、どれも妾という条件だったようで、断り続けていたといいます。しかし、栄一との縁談は正妻として迎えるという条件だったので、再婚を決意したといいます。そして栄一と兼子の仲には、明治19年(1886年)に武ノ助、同21年(1888年)に正雄、同23年(1890年)に愛子、同25年(1892年)に秀雄が生まれました(他にも死産や夭折が数人)。兼子は82歳まで長寿しますので、二人の夫婦生活は、前妻・千代とのそれよりも長いものとなります。
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by sakanoueno-kumo | 2021-11-29 16:16 | 青天を衝け | Trackback(1) | Comments(0)

いよいよ、佳境の今年の大河ドラマ「青天を衝け」、私は割と面白かったですね。ただ、明治になってからが、渋沢栄一の活躍時期なのに、ここにきて、かなり駆け足になっているような。昨年の「麒麟が来る」がコロナで今年にずれ込み、オリンピックでも空けさせられたという事情はあったにせよ、もう少し、前半を絞っても良かったような。(↑渋沢栄一墓所。大河ドラマになったからって、ずっとこうやって献花していたのでしょうか?「みずほ銀行もこんな所に神経使ってないで、ATM何とかしろ!」と言われそうな。ちょっと、違和感ありました...... more