姉川古戦場めぐり。 その10 <血原>
「その9」のつづき、シリーズ最後です。
「その1」で紹介した野村古戦場跡から西へ700mほどのところに、「血原」という物騒な名称の場所があります。
ここは、元亀元年6月28日(1570年7月30日)に起きた姉川の戦いの際に激戦地となった場所です。

野村古戦場跡にあったものと同じ大きな看板があります。
ただ、野村の看板と違うのは、「朝倉軍×徳川軍 合戦地」と書かれています。
ここは朝倉軍と徳川軍が激突した場所で、浅井軍と織田軍は、「その1」で紹介した野村古戦場跡で戦いました。


野村の看板と同じく、片面が赤、片面が白のデザインになっています。
これは、合戦の紅白をイメージしたものでしょうか?

説明板です。
ここが朝倉軍と徳川軍の決戦の地となった場所で、多くの戦死者の血で染まったので「血原(ちはら)」と呼ばれるようになったそうです。
両軍の戦いで、最も有名なのが、朝倉軍の武将・真柄十郎左衛門直隆の討死です。
直隆は長さ五尺三寸(約160cm)もの大太刀「太郎太刀」を振り回して戦ったと伝わる豪傑で、朝倉軍の敗色が濃厚になると、味方を逃がすべく、単騎で徳川軍に突入し、12段構えの陣を8段まで突き進んだといいます。
しかし、向坂三兄弟の攻撃を受け力尽き、「我頸を御家の誉れにせよ」と敵に首を献上して果てたと伝わります。
このとき、向坂兄弟が討ち取った時に使用した太刀は「真柄斬り」と名付けられ、名刀のひとつになっています。
看板の上にある刀が、直隆の「太郎太刀」の原寸大だそうです。

でも、どう見ても長すぎますよね。
江戸時代の刀の長さは二尺三寸から二尺四寸(約70~73cm)ですから、その2倍近くあります。
佐々木小次郎が「物干し竿」と呼ばれる大刀を振るったという伝説がありますが、それでも三尺(約90cm)。
だいたい、こんな長い刀を腰に佩いても、抜けないでしょう。
佐々木小次郎は三尺の刀を背中に背負っていましたが(これもあくまで伝説ですが)、それも無理。
長い刀を愛用していたというのは本当の話かもしれませんが、五尺三寸というのは、相当盛られているでしょうね。

「姉川古戦場趾」と刻まれた石碑があります。

戦いの展開については、太田牛一の『信長公記』には次のように記されています。
廿八日卯刻、丑寅へむかって御一戦に及ばる。御敵もあね川へ懸かり合ひ、推しつ返しつ、散々に入りみだれ、黒煙立て、しのぎをけづり、鍔をわり、爰かしこにて、思ひおもひの働きあり。
(6月28日午前6時ごろ、東北に向かって一戦に及んだ。敵も姉川にかかって攻めてきたが、互いに押しつ押されつ、さんざんに入り乱れて、黒煙をあげ、しのぎを削り、つばを割って、ここかしこで思い思いの働きをした)

また、小瀬甫庵の『信長記』では、下記のように伝えます。
火花を散らし戦ひければ、敵味方の分野は、伊勢をの海士の潜きして息つぎあへぬ風情なり
(両軍火花を散らして戦うその光景は、まるで伊勢の海女が潜きて息もできないようだった)
例えが伊勢の海女というのはよくわかりませんが、とにかく両軍入り乱れた激戦だったようです。

戦いは午後2時ごろに終わり、織田軍の勝利で幕を閉じました。
『信長記』は次のように伝えます。
大谷まで五十町追ひ討ち、麓を御放火。然りと雖も、大谷は高山節所の地に候間、一旦に攻め上り候事なり難くおぼしめされ、横山へ御人数打ち返し、勿論、横山の城降参致し、退出(おいだ)し、木下藤吉郎、定番として横山に入れおかる。
(信長は小谷まで五十町に迫って追討ちをかけ、麓の家々に火をかけた。しかし、なお、小谷城は高山要害の地であったから、一挙に攻め上ることは難しいと考え、兵をいったん横山城へ引き戻した。もちろん、横山城の城兵は降参し、城から立ち退いたので、木下藤吉郎を城番に置いた。)

石碑の側には、「血原養水底樋跡」と書かれた石碑と石組みの水路の跡があります。
姉川の戦いとは関係ありませんが、これは江戸時代中期の遺構で、当時の彦根藩が、ここから灌漑のために水を引いた用水路の跡だそうです。

その説明板。

こちらには、堤防の説明板があります。

戦国時代、武田信玄によって考案されたという河川堤・霞堤(かすみてい)、通称・信玄堤の一部がここに残っているそうです。

堤の上に登ってみましょう。

堤の上です。
江戸時代から数百年、姉川の氾濫を防いできた歴史ある堤です。

堤防から見た姉川です。
手前は霞堤の築造で作られた細い水路で、向こうが姉川の本流です。
この2重構造によって堤を決壊から防ぐ機能が働くそうです。
それを思いついた信玄はスゴイですね。

血原から北を見ると、小谷城が見えます。

姉川の戦いは織田信長の勝利に終わったものの、決して浅井、朝倉勢に致命的なダメージを与えた勝利ではありませんでした。
その証拠に、このあとも浅井・朝倉軍は志賀の陣などで信長を大いに苦しめ、朝倉、浅井両氏を滅亡に追いやるまで3年の年月が掛かります。
そういう意味では、この戦いは、有名なわりには、歴史の展開を大きく左右するような戦いではなかったということになるかもしれませんね。
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by sakanoueno-kumo | 2021-10-30 17:10 | 滋賀の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)