姉川古戦場めぐり。 その9  <七十士の墓> : 坂の上のサインボード
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姉川古戦場めぐり。 その9  <七十士の墓>

「その8」のつづきです。

三田村氏館跡と伝わる伝正寺から西へ200mほど歩いたところに、戦国時代末期のものと見られる石塔群があります。

これは、元亀元年6月28日(1570年7月30日)に起きた姉川の戦いでの戦死者たちの墓石と伝えられているそうです。


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石塔群は小川に架かる橋のたもとの狭いスペースにひっそりとあります。

知らなければ見過ごしてしまいそうな場所です。


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こちらが、その石塔群。

地蔵堂が建てられ、その周囲に石塔が集められています。


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説明板によると、もとはこの西北の「西三味」と呼ばれる場所にあった地蔵堂付近の墓石を、昭和55年(1980年)に完成した三田町の圃場整備に際して、ここにまとめたものだそうです。


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「西三味」は三田村氏館跡に移転した伝正寺の旧地とされているそうで、その移転時期は、正徳5年(1715年)と考えられているそうです。


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石塔は五輪塔宝篋印塔からなりますが、その形態は姉川の戦いがあった戦国末期のものとみられるそうで、伝承を裏付けています。


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地蔵堂の裏側にまわって見ると、石塔群が五輪塔や宝篋印塔の一部であることがよくわかります。


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また、別の説では、この石塔群は三田村氏館跡の城主だった三田村左衛門一族の墓との説もあるようです。

「その6」「その8」で紹介したとおり、三田村左衛門は浅井氏の重臣・遠藤直経がそのを揚げて織田の武将に成りすまし、信長本陣に入り込んだという逸話の首の人ですが、その3年後、小谷城落城の際に三田村一族は羽柴秀吉に投降するも赦されず、一族もろとも処刑されたとの伝承があります。

上述したとおり、この石塔群はもとは旧伝正寺にあったとされ、その伝正寺が江戸時代に三田村氏館跡に移転したことを思えば、伝正寺と三田村氏とは浅からぬ関係だったのかもしれません。

あるいは、三田村氏の菩提寺だったのかもしれませんね。

そう考えれば、この石塔群が三田村一族の墓石だったという説、あり得るような気がします。


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江戸時代の伝正寺の移転や昭和の圃場整備の際、処分されていてもおかしくなかった石塔群。

令和になってもこうして残っていて、私のような歴史オタクの目に触れることで、少しは供養になると嬉しいですね。

「その10」につづきます。




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by sakanoueno-kumo | 2021-10-28 09:57 | 滋賀の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

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