姉川古戦場めぐり。 その7 <岡山(徳川家康の陣跡)>
「その6」のつづきです。
織田信長の本陣跡と伝わる陣杭の柳から800mほど西に、岡山と呼ばれる低い丘陵地があります。
ここは、元亀元年6月28日(1570年7月30日)に起きた姉川の戦いの当日、徳川家康が陣を布いた場所と伝わります。

写真は岡山の南側にかつて鎮座していた流岡神社の鳥居です。
この背後の丘が岡山です。

6月24日、龍ヶ鼻砦に陣を布いて横山城を攻めていた織田信長のもとに、徳川家康
は援軍として6千の兵を引き連れて駆けつけます。
28日朝、姉川を挟んだ北方対岸に浅井長政・朝倉景健軍が兵を進めると、織田軍は陣杭の柳に、そして徳川軍はここ岡山に陣を移して敵の攻撃に備えます。
信長の本陣は浅井軍が陣を布いた野村の陣田、家康が陣を布いたここ岡山は、朝倉軍が陣を敷いた三田村に対峙する場所でした。

江戸時代に編纂された『松平記』『三河物語』などでは、いずれも、織田軍は浅井軍に押されて危うかったが、徳川軍が浅井軍を打ち負かしたので、姉川の戦いに勝利することが出来た、と伝えています。
もっとも、『松平記』しろ『三河物語』しろ、徳川氏創業史として書かれたものなので、随所に家康贔屓の記述が見られ、そのまま信じるわけにはいかないでしょう。

説明板です。

鳥居の向こうに流岡神社跡の祠があるようです。
せっかくなので参拝していきましょう。

神社の御神木です。
とんでもなくデカイ!

看板を見ると、樹高30m、幹周囲5.7m、そして、なんと樹齢1300年。
奈良・飛鳥時代からの大杉だそうです。
ということは、家康がここに陣を布いたときも、すでに樹齢900年の巨樹だったってことになりますね。


説明板によると、大杉の上部が枯れているのは、合戦の折、両軍の矢が飛び交って枝を折ったためと伝えられているそうです。
矢が枝を折ったぐらいで枯死したりはしないと思うのですが・・・。
まあ、こういう伝承にツッコミを入れるのは、無粋というものでしょう。

祠です。

祠の裏にまわって岡山の上に登ってみましょう。

登ってみましたが、残念ながら木々が邪魔して北側の姉川は望めませんでした。

ここ岡山は、戦いに勝ったことに因んで「勝山」と呼ばれるようになったそうです。
似たような話で、大坂の陣の際に徳川軍が本陣を布いた「岡山」という場所が、戦後、「御勝山」と呼ばれるようになったという逸話の場所が2ヵ所もあります。
徳川は岡山と勝山が好きですねぇ。

岡山を登ったところで、「その8」につづきます。
ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
↓↓↓


by sakanoueno-kumo | 2021-10-22 01:34 | 滋賀の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)