姉川古戦場めぐり。 その5 <陣杭の柳(織田信長本陣跡)>
「その4」のつづきです。
茶臼山古墳から250mほど西に、「陣杭の柳」と呼ばれる柳の木があります。
ここは、元亀元年6月28日(1570年7月30日)に起きた姉川の戦いの当日、織田信長が本陣を布いた場所と伝わります。

前稿で紹介した龍ヶ鼻砦に陣を布いて横山城を攻めていた信長でしたが、姉川対岸の北方2kmの大依山に陣を布いていた浅井長政は、6月27日の夜、密かに南へと兵を進め、陣田に着陣。
浅井氏の援軍に駆けつけていた朝倉景健の軍も一緒に動き、陣田より少し西の三田村に着陣します。

この時点では信長には決戦の意志はなかったようですが、浅井・朝倉軍の動きを見て、織田軍はこの地に本陣を移し、敵の攻撃に備えます。

ここに立つ柳は、信長が陣太鼓をかけて指揮したという伝承がある木だそうで、「陣杭」は本来「陣鼓」と書かれていたとも言われます。

この柳は尾上柳という種類だそうです。

説明板によると、信長本陣の柵に使われた生木が自生したと伝わるそうですが、現在の柳は平成元年(1989年)に3代目の木から枝を取った4代目に当たるそうです。
もともと約10m北西に立っていたそうですが、平成9年(1997年)の圃場整備により、現在地に移植されたそうです。

東に茶臼山古墳と龍ヶ鼻砦の山が見えます。

古墳の下に停まっている紺のプリウスαは私のマイカーです(笑)。
ここ陣杭の柳は駐車スペースがなさそうだったので、あそこから歩いてきました。
そのはるか向こうに見える山が、近江の最高峰、標高1377mの伊吹山です。

南に横山城のあった横山が見えます。

横山城は浅井長政の配下の部将・大野木土佐守が守っていましたが、姉川の戦いに浅井軍が敗れると、織田軍に奪われます。
そして木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)を城番に置き、小谷城攻めの拠点とします。

西には朝倉氏の本拠・小谷城が見えます。

いちばん高いところが支城の大嶽城のある標高495mの小谷山(伊部山)、写真では分かりづらいですが、その手前のなだらかな稜線の尾根上に、小谷城の曲輪群が連なります。

その南に見える低い山が、小谷城攻めで信長軍が陣を布いた虎御前山です。
姉川の戦いから2年後、信長は虎御前山に小谷城攻めの陣を布き、羽柴秀吉を城番に据えます。
小谷城が落城するのは、その1年後のことです。

信長がここに陣を移すと、援軍の徳川家康は少し西の岡山に陣を布きます。
「その6」につづきます。
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by sakanoueno-kumo | 2021-10-15 14:40 | 滋賀の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)
小谷とか賤ヶ岳とかはやはり、登山になるんでしょ?
ちょっと、最初の方だけとか登れたりするんですか?
姉川古戦場は徒歩でまわるのはちょっとしんどいでしょうね。
レンタカーかレンタサイクルが必要かと。
小谷城はわたしは麓から登山しましたが、5合目あたりの番所跡まで車で登ることもできます。
ただ、駐車スペースが5~6台分ほどしかないですが。
番所跡から本丸、京極丸、山王丸あたりまでは緩やかな尾根伝いなので、楽に登れますよ。
でも、頂上の大嶽城まで登るのであれば、けっこう険しいです。
賤ヶ岳はロープウェイで8合目あたりまで登れます。
頂上から見る景色(特に北側の余呉湖)は絶景ですよ。
ぜひ晴れの日に行ってほしいです。
ただ、観光地化されていて、砦の遺構はあまり残っていません。
遺構でいえば、秀吉の本陣となった田上山砦や、勝家の本陣・玄葉尾城の方が見応えあります。
玄葉尾城なんて、これが本当に付け城か?・・・と思うほどの土塁や堀切のオンパレードで、感動ものですよ。
また、おいおい起稿していきます。