麒麟がくる 第6話「三好長慶襲撃計画」 ~足利義輝、細川晴元、三好長慶~
今回は細川晴元と三好長慶の覇権争いが主体の話でしたね。この2人の関係を見るには、まずはこの時代の政局について知る必要があります。
足利義輝が将軍職に就いていたこの時代、室町幕府の権威は地に落ちたも同然の状態でした。この時代より80年ほど前に起きた応仁の乱を幕府が収拾できなかったことで、将軍の存在意義がなくなってしまっていたんですね。代わって実権を握ったのが、幕府ナンバー2のポジションにあった管領、特に細川氏でした。室町幕府の管領は当初、斯波氏、細川氏、畠山氏の三家(三管領家)が持ち回りで務めましたが、これも応仁の乱以降、細川氏以外の二氏は急速に勢力を失い、細川氏が独占するようになっていました。本来、管領は将軍を補佐する立場だったのですが、いつしか彼らは将軍の言うことなど聞かなくなり、むしろ、歯向かえば逆に攻撃してくるほど力関係は逆転していた状態で、義輝の祖父の代には、将軍家は京を追われて近江国に逃れていました。そのため、義輝が生まれたのも、近江国だったといいます。
そんな細川氏の中でも、権力争いが絶えませんでした。父の死によって7歳で家督を継いだ細川晴元は、13歳のとき、父の政敵だった細川高国打倒の兵を挙げ、この戦いに勝利します。このとき晴元の力となったのが、三好長慶の父・三好元長でした。三好氏は阿波細川氏に代々仕える譜代の臣で、この功績により、更に重臣としての地位を高めます。しかし、その関係も長くはつづかず、三好元長が細川高国との和睦を図ったことによって不仲となります。その後も両者は勢力争いのなかで対立、和睦を繰り返しますが、やがて元長は晴元によって自害に追い込まれます。そうすると、今度は元長の嫡男・長慶と和睦して配下に組み入れます。この晴元と長慶の関係も、ひっついたり離れたりを繰り返すのですが、ドラマのこの時期は、関係が悪化していた時期ですね。ネタバレになりますが、晴元はやがて長慶によって失脚させられます。まあ、長慶にしてみれば、父の仇ですからね。当然の反逆だったといえるでしょう。
なぜ晴元は、対立と和睦を繰り返しながらも三好氏を配下に組み入れたかというと、激しい覇権争いの続くなか、政権を維持するには三好氏の武力を頼るしかなかったんですね。
将軍・足利義輝は、父の足利義晴とともに晴元によって京を追われていましたが、ドラマのこの前年に晴元と和睦し、京に戻ってきていました。ドラマで三好長慶と松永久秀の襲撃計画を聞きつけた明智光秀が、三淵藤英と細川藤孝に助けを求めにいったところ、三好も松永も昨年までは争っていた間柄で、駆けつける理由がないと断っていましたが、そういう背景からの台詞だったわけです。
ドラマでは三好長慶と松永久秀を助けるために家臣を現場に向かわせた義輝でしたが、この翌年には長慶と対立することとなり、これもネタバレになりますが、この15年後、松永久秀と三好一族の三好三人衆によって殺害されます。まさに、昨日の友は今日の敵。誰と誰が味方で誰が敵か、わけのわからない時代でした。つくづく、こんな時代に生まれなくてよかったと思います。いちばん恐るべきは隣国の敵よりも有力な家臣、そんな時代だったんですね。その秩序の乱れを、「何かが違う」と憂うドラマの光秀。もっとも、明智光秀その人こそ、日本史上最も有名な反逆事件を起こすことになるんですけどね。
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by sakanoueno-kumo | 2020-02-25 16:14 | 麒麟がくる | Trackback | Comments(2)
将軍義輝弑逆も久秀じゃなくて息子だったとか。
最期もライバル筒井順慶に負けた形ですし。
ちなみに、三淵藤英って恥ずかしながら、初めて知ったのですが、有名だったんですか?
たしかに、最近の説では将軍義輝弑逆の実行犯は息子だったようですね。
もっとも、直接関与していなかっただけで、義輝を邪魔だとは思っていたでしょうから、義輝弑逆も容認していたんじゃないでしょうか。
悪人、善人でいえば、やはり悪人なんでしょうが、後世に伝わる久秀像というのは、フロイスの記述と東大寺焼き討ちで実像以上に悪人になっているかもしれませんね。
いや、実はわたしも三淵藤英って知りませんでした。
ってか、細川藤孝がもとは三淵家に生まれて細川家に養子にいったってことも、最近知りました。
基本的に司馬さんの『国盗り物語』に出てこない人物のことは、あまり知りません(笑)。