天下布武の象徴、安土城攻城記。 その9 <伝二ノ丸跡(織田信長廟所)>
「その8」で天守台まで攻略しましたが、少し戻って安土城伝二ノ丸跡に向かいます。
伝二ノ丸跡には、織田信長廟所があります。
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石段を上がると、左に「二の丸阯」、右に「織田信長公本廟」と刻まれた石碑があります。
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石碑は昭和6年(1931年)に建てられたもののようです。
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信長の死について今更解説する必要はないと思いますが、天正10年6月2日(1582年6月21日)に明智光秀が起こした本能寺の変によって横死しました。
信長の遺体は見つかっておらず、したがって、ここに信長は眠っていません。
![天下布武の象徴、安土城攻城記。 その9 <伝二ノ丸跡(織田信長廟所)>_e0158128_18060852.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/202001/09/28/e0158128_18060852.jpg)
本能寺の変の翌年の天正11年(1583年)2月、羽柴秀吉が亡き主君・信長の菩提を弔うためにこの廟所を建立しました。
遺体は見つかっていないため、信長愛用の太刀や烏帽子、直垂などの遺品が埋葬されたと伝えられます。
![天下布武の象徴、安土城攻城記。 その9 <伝二ノ丸跡(織田信長廟所)>_e0158128_18061090.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/202001/09/28/e0158128_18061090.jpg)
周知のとおり、信長の死後間もない天正10年6月27日(1582年7月16日)に行われた清須会議において、秀吉は信長の後継にわずか3歳の三法師(織田秀信)を推薦し、自らがこの後見人となって織田家中のイニシアティブをとりました。
その後、秀吉は荒廃した安土城を改修して同年12月に三法師の居城とし、年が明けた正月には、三法師に年賀を表すべく安土城に登城しています。
その翌月にこの廟所を建立しているわけで、秀吉としては、三法師の後見人としてここに信長の墓を建てることで、自らが信長の後継者であることを世に示したともいえるでしょう。
この廟所は、秀吉の政治といえます。
![天下布武の象徴、安土城攻城記。 その9 <伝二ノ丸跡(織田信長廟所)>_e0158128_18025654.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/202001/09/28/e0158128_18025654.jpg)
この門より向こうは立入禁止となっています。
![天下布武の象徴、安土城攻城記。 その9 <伝二ノ丸跡(織田信長廟所)>_e0158128_18025973.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/202001/09/28/e0158128_18025973.jpg)
これまでの稿でも述べてきたとおり、ここが二ノ丸というのはあくまで「伝」であり、確証はありません。
現在の伝本丸、伝二ノ丸、伝三ノ丸などの呼称は、安土城廃城後100年以上経った貞享年間(1684~88年)に描かれた絵図に記されたものであって、信憑性はありません。
むしろ、本丸より二ノ丸や三ノ丸のほうが高いという構造や、秀吉がここに信長の廟所を設けたということからみるに、貞享古図の伝本丸、伝二ノ丸、伝三ノ丸は誤りで、実際には、これら3つの郭をすべてまとめて本丸(本城)としていたのではないかと考えられています。
そして、信長の廟が建立されたこの地こそ、「御座敷」と「御幸の御間」からなる本丸表御殿があったのではないかと言われています。
![天下布武の象徴、安土城攻城記。 その9 <伝二ノ丸跡(織田信長廟所)>_e0158128_18030262.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/202001/09/28/e0158128_18030262.jpg)
ここは信長の廟所ということもあって、発掘調査はされていません。
ここを掘り起こせば、御殿跡の痕跡などが見つかるかもしれないのですが、墓を掘り起こすというのは、なかなか難しいのかもしれません。
![天下布武の象徴、安土城攻城記。 その9 <伝二ノ丸跡(織田信長廟所)>_e0158128_18061330.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/202001/09/28/e0158128_18061330.jpg)
冒頭の石碑には「本廟」と刻まれていましたが、京都の阿弥陀寺にも、信長の本廟と伝わる墓石があります。
また、現在の本能寺(かつての本能寺とは場所が違う)にも信長の廟所があります。
それぞれ建てた人が違うのですが、いずれにしろ、そのどこにも信長の遺体は眠っていませんから、うちが本廟だ!と言ってしまえば、それで通るのでしょうね。
「その10」に続きます。
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by sakanoueno-kumo | 2020-02-12 23:34 | 滋賀の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)