天下布武の象徴、安土城攻城記。 その8 <天守台>
「その7」の続きです。
いよいよ、近代城郭の礎となった安土城天守台に登りたいと思いますが、その前に、天守台石垣を見てみましょう。

上の写真は天主台東南部の出隅石垣です。
隅が鈍角に曲がる「しのぎ積み」という工法が用いられています。
これは、比較的古い時代の工法です。

安土城天守台は不等辺八角形となっており、そのせいで出隅がすべて鈍角に曲がる「しのぎ積み」となっています。
これは、天然の山の形状をそのまま利用して築かれたからと考えられます。
前稿で紹介した本丸が一面の広場にならず、複数の小郭に分裂している構造も、同じ理由からでしょう。

こうした構造は、中世から織豊期の山城、平山城に多く見られる構造ですが、関ヶ原の戦い以降になると、地形の削り方が大掛かりになり、郭の隅部は櫓を建てやすくするために直角に築造され、尾根を削り谷を埋めて広い一面の本丸が築かれるようになります。

「その6」でもふれましたが、これまで見てきた安土城の石垣は、ほとんどが昭和になってから積み直されたものですが、ここ天守台石垣と伝二ノ丸下の石垣は、当時のまま、つまり、積み直されていない天正の石垣なんだそうです。


伝本丸跡から天守台に登る石段です。
伝天主取付台と呼ばれています。


石段は昭和初期の発掘調査の際に積み直されたものだそうです。


いよいよ天守台の上、という場所に、「天守閣址」と刻まれた石碑があります。

天守台上です。
礎石が整然と並んでいます。

安土城の天主は、完成してからわずか3年の天正10年(1582年)6月に焼失してしまったため、その実像をうかがい知ることはできません。
現在に伝わる安土城天守の様相は、当時、実際に城を観覧したポルトガル宣教師ルイス・フロイスの著書『日本史』や、太田牛一の『信長公記』の写本の1つである『安土日記』によるところが大となっています。

フロイスは記述には、天主に関して次のように記しています。
信長は、中央の山の頂に宮殿と城を築いたが、その構造と堅固さ、財宝と華麗さにおいて、それらはヨーロッパのもっとも壮大な城に比肩しうるものである。
事実、それらはきわめて堅固でよくできた高さ60パルモを超える―それを上回るものも多かった―石垣のほかに、多くの美しい豪華な邸宅を内部に有していた。
それらにはいずれも金が施されており、人力をもってしてはこれ以上到達し得ないほど清潔で見事な出来栄えを示していた。
大絶賛ですよね。
フロイスはよほどこの天守に魅せられたのでしょう。

さらにフロイスは続けます。
その中心には、彼らがテンシュと呼ぶ一種の塔があり、私たちの塔より気品があり壮大な建築である。
この塔は七重からなり、内外共に建築の妙技を尽くして造営された。
事実、内部にあっては、四方に色彩豊かに描かれた肖像たちが壁全面を覆い尽くしている。
外部は、これらの階層ごとに色が分かれている。
あるものはこの日本で用いられている黒い漆塗りの窓が配された白壁であり、これが絶妙な美しさを持っている。
ある階層は紅く、またある階層は青く、最上階は全て金色である。
このテンシュは、その他の邸宅と同様に我らの知る限りの最も華美な瓦で覆われている。
それらは、青に見え、前列の瓦には丸い頭が付いている。
屋根にはとても気品のある技巧を凝らした形の雄大な怪人面が付けられている。
このようにそれら全体が堂々たる豪華で完璧な建造物となっているのである。

天正13年(1585年)に豊臣秀吉によって廃城となると、その後、訪れる人もなく、永い年月の間に瓦礫と草木の下に埋もれてしまっていました。
ここにはじめて調査の手が入ったのは、昭和15年(1940年)のことでした。
調査の結果、往時そのままの礎石が見事に現れました。
このとき、石垣の崩壊を防止するために若干の補強が加えられた他は、検出した当時のまま現在にいたっているそうです。

現在の天守台上部は地下1階部分だそうですが、天主台の広さは、これよりはるかに大きく2倍半近くあったそうです。
現在石垣上部の崩壊が激しく、その規模を目で確かめることができません。

天守台からの西側の眺望です。
遠くに琵琶湖が見えます。
眼下に田園風景が広がっていますが、かつてはあそこも琵琶湖の入江でした。
織田信長が見たここからの眺めは、一面湖だったようです。

こちらは北側、彦根方面の眺望です。

さて、天守まで攻略しましたが、まだまだシリーズは続きます。
つづきは「その9」にて。
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by sakanoueno-kumo | 2020-02-08 00:31 | 滋賀の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)