麒麟がくる 第3話「美濃の国」 ~斎藤道三に担がれてはしごを外された土岐頼芸~
土岐頼芸が出てきましたね。頼芸といえば、斎藤道三に国を盗られたバカ殿さまというイメージが強い人物ですが、『麒麟がくる』ではどのように描かれるでしょうか。そこで、今回は頼芸と道三のこれまでの足跡を簡単に解説します。
美濃国守護・土岐政房の次男として生まれた頼芸は、兄に土岐頼武がいたのですが、父の政房が嫡男である頼武より次男の頼芸を偏愛して家督を継がせようしたため、兄弟は対立していくようになりました。そうなると、やがてこの対立関係に合わせて家臣たちも分裂し、兄の頼武を支持する美濃守護代の斎藤利良と、弟の頼芸を担ぐ長井長弘、長井新左衛門(松波庄五郎)らとの派閥争いに発展します。この長井新左衛門(松波庄五郎)が、かつては斎藤道三と改名前と考えられていましたが、現在では道三の父という説が定説となっています。両派は幾度も争いを繰り広げ勝ったり負けたりを繰り返していましたが、そんな派閥争いのなか、美濃国守護の土岐氏はだんだん弱体化していきました。
そして大永5年(1525年)に起きた大きな内乱で頼芸が勝利し、頼武は妻の実家である越前国の朝倉氏を頼って落ち延びます。このとき頼芸をバックアップしたのが、長井新左衛門の子・長井規秀でした。のちの斎藤道三です。以後、頼芸は道三を重用し、勢力保持を図ります。しかし、道三は頼芸の手に余る曲者でした。ここから道三の国盗り物語が始まるんですね。道三はかつて父を推し上げてくれた恩人の長井長弘を、あらぬ嫌疑をかけて謀殺し、その後、美濃国守護代の斎藤利良が病死すると、その名跡を継いで斎藤新九郎利政と名乗ります。さらに、利政は土岐氏の弱体化を狙って頼芸の弟の土岐頼満を宴で毒殺。この事件が契機となって、頼芸と道三とのの対立抗争がはじまりました。天文11年(1542年)に道三は頼芸の居城・大桑城を攻め、頼芸とその子の二郎(頼次)を尾張へ追放して、事実上の美濃国主となったとされています。
その後、頼芸は尾張国の織田信秀の支援を受け、越前国の朝倉孝景の庇護下にあった甥の土岐頼純とともに美濃国へ復帰しますが、天文15年(1546年)に道三と孝景が和睦し、その和睦の条件が頼芸の守護退任であったため、頼芸は守護の座を頼純に明け渡しました。しかし、第2話で描かれていたように、その頼純も道三によって毒殺され、守護職が空席となっていました。これが、今回、道三が頼芸に守護職復帰を促していたシーンにつながるわけです。
ただ、これらの説はすべて一説であって、異説がたくさんあります。天文11年(1542年)に頼芸が追放されたという話も、諸説あって定かではありません。また、頼純が守護職に就いたという話もたしかな史料はなく、この時点では、まだ頼芸が守護職だったと説く歴史家さんたちも多くおられます。このあたりの土岐氏については、詳しくはわかっていないことが多いようです。道三に担がれてはしごを外された頼芸。ドラマのとおり、頼芸は鷹の絵を得意とし、後世に幾つもの書画を書き残しています。頼芸は守護職の家などに生まれず、文化人として身を立てたほうが後世に名を残したかもしれませんね。
道三の側室・深芳野も出てきましたね。深芳野はかつて頼芸の愛妾だった女性で、のちに道三へ下賜され、道三の嫡男・斎藤義龍を生んだとされますが、実は彼女は既に頼芸の胤を身籠っていたといわれ、その子が義龍であるという説があります。それが、のちの父子の確執となっていった、と。ただ、これも一説であり、たしかな証拠はありません。義龍の母親については、深芳野ではなかったという説もありますしね。この話は、また次の機会にしましょう。
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by sakanoueno-kumo | 2020-02-03 19:31 | 麒麟がくる | Trackback | Comments(0)