太平記を歩く。 その189 「正平の役(八幡の戦い)古戦場跡」 京都府八幡市 : 坂の上のサインボード
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太平記を歩く。 その189 「正平の役(八幡の戦い)古戦場跡」 京都府八幡市

正平7年/文和元年(1352年)閏2月19日、後村上天皇(第97代天皇、南朝第2代天皇)が都を臨む男山八幡に入ると、翌日には南朝方武将の楠木正儀北畠顕能らが足利尊氏不在の隙を突いて入京し、尊氏の嫡男・足利義詮に攻撃を仕掛け、近江に追いやります。

京で捕らえられた光厳上皇(北朝初代天皇)、光明上皇(北朝第2代天皇)、崇光上皇(北朝第3代天皇)、直仁親王は当時南朝方の拠点だった賀名生に移され、ここに、17年ぶりに南朝方が京の都に返り咲きました。

しかし、その喜びもつかの間の3月15日、近江で勢力を盛り返した義詮軍が再び都を奪還し、3月21日には男山八幡の後村上天皇行宮を包囲。

ここから約2ヵ月、包囲戦が行われます。

世にいう「正平の役」です。

「八幡の戦い」ともいいますね。

前稿で紹介した「八幡行宮阯」から南へ約2kmの間には、その古戦場跡を示す石碑が数か所に建てられています。


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まず、八幡行宮阯から歩いて5分ほど南下したあたりにある本妙寺の入口には、「正平役城之内古跡」と刻まれた石碑が立っています。

写真後ろの石碑です。

「城之内」ということは、このあたりも後村上天皇行宮の中だったってことでしょうか?


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石碑裏面です。

「昭和二年十月」と刻まれています。


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続いて、本妙寺から南に5分ほど歩いた場所にある八幡市民図書館の前には、「正平役園殿口古戦場」と刻まれた石碑もあります。


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『太平記』巻31「八幡合戦事付官軍夜討事」の中に、「顕能卿ノ兵、伊賀、伊勢ノ勢三千余騎ニテ、園殿口ニ支テ戦フ」という記述があり、おそらくその「園殿口」というのが、このあたりなんでしょうね。


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こちらの石碑の裏にも「昭和二年十月」と刻まれています。


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八幡市民図書館から1.5kmほど南下した八幡大芝にある八角堂の近くには、「正平役血洗池古蹟」と刻まれた石碑があります。

「血洗池」とは物騒な名称ですが、池に茅原が茂っていたため、茅原(チハラ)が訛って、古戦場ということも相まってこう呼ばれるようになったのではないかと考えられているそうです。


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この石碑がなかなか見つけられずに苦労しました。

近くを何回も通り過ぎていたのに気付かずで・・・。


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こちらは、「昭和二年七月」と刻まれています。


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最後に、「正平役血洗池古蹟」から南へ200mほど下ったところにある松花堂庭園前の交差点に、「正平七年役神器奉安所 岡の稲荷社」と刻まれた石碑があります。


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岡の稲荷社は、戦いに敗れた後村上天皇が賀多生へ落ちのびる際、この地に三種の神器隠し置いたと伝えられ、それを狐が守護していたため、のちに稲荷社が建てられたと伝えられるそうです。


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こちらも裏面には「昭和二年七月」と刻まれています。


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3月21日に始まった攻防戦は、洞ケ峠、財園院、森の薬園寺、園の法圏寺口、足立寺の佐羅科、如法経塚など、男山八幡を囲む各所で戦闘がくりひろげられましたが、南朝方は次第に兵糧が少なくなり、5月11日、後村上天皇は八幡を出て再び賀名生に落ち延びます。


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ちなみに余談ですが、上記で紹介した石碑は、すべて、幕末から明治・大正にかけて京都で帯織物業で財を成した三宅安兵衛という人の遺言によって、その長男・三宅清治郎氏が私財を投げ打って建てたものだそうで、石碑は京都市内から八幡市、宇治市、京田辺市、精華町、井手町、山城町、加茂町に広がり、その数は400を越えるといわれています(参照:三宅安兵衛の碑)。

上記裏面の写真をよく見てみると、すべて「三宅安兵衛依遺志建立」と刻まれていますね。

清治郎さん自身の名を刻まず、亡き父の名を刻んだあたりも、三宅清治郎という人の人となりをうかがい知ることができる気がします。

一度、「三宅安兵衛の碑めぐり」というのをやってみるのも、面白いかもしれませんね。




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by sakanoueno-kumo | 2018-01-26 23:05 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)

 

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