太平記を歩く。 その184 「平野城(御影村城)跡・中勝寺」 神戸市東灘区
神戸市東灘区の山の手に、かつて平野城(御影村城)があったと伝わります。
詳細な場所はわかっていませんが、御影の古い地図には、大手筋、大蔵、城之前といった地名があったそうで、城が存在したことは間違いないでしょう。
阪急御影駅の北側に、その石碑があります。
推定では、阪急電鉄御影駅の北側にある御影北小学校あたりを中心に、東は深田池、浅田池、北は御影山、西は石屋川の谷によって区切られた高台になっている場所に、平野城があったとされます。
上の写真は御影駅北にある深田池公園。
この池が、平野城の堀の名残だと伝わるそうですが、真偽はわかりません。
公園内にある説明板です。
ここを訪れのは桜の季節で、人で賑わっていました。
続いて訪れたのは、御影北小学校。
写真右が小学校で、左が阪急電鉄です。
遺構らしきものは見当たりませんが、なんとなく、城を思わせる地形です。
小学校裏の墓地から南を見下ろした眺望です。
小学校から阪急電車の線路を挟んで南にある、「上ノ山公園」です。
こちらにも、平野城に関する説明板が。
平野城の築城時期はわかっていませんが、南北朝時代の初期には赤松則村(円心)が支配し、家臣の平野忠勝に城を守らせていたと伝わります。
円心は、「観応の擾乱」においては足利尊氏に従い、軍を編成している最中の正平5年/観応元年(1350年)1月11日、京都七条にある邸宅で急死しました。
享年74歳。
その後、平野城を任されていた平野忠勝は、円心の遺志を継いで尊氏に付き従い、「打出浜の戦い」に敗れて帰農したと伝わります。
忠勝は隣の郡家村に家を建てて農民の指導者になり、その子孫もずっと郡家に住んだといいます。
そんな忠勝を弔うためにつくられた中勝寺は、今も御影町にあります。
中勝寺略縁起です。
忠勝の墓碑です。
説明板です。
平野家と御影のまちはずっと関わっていきますが、平野城は歴史の記録から消え、いつなくなったかは定かではありません。
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by sakanoueno-kumo | 2018-01-19 22:59 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)