太平記を歩く。 その150 「北畠顕家墓所」 大阪市阿倍野区
北畠顕家の墓所と伝わる場所に来ました。
現在は北畠公園として整備されています。
公園入口の石碑は、昭和14年(1939年)に建てられたものです。
由緒書です。
墓石の周りは塀と柵で囲われていて、なかに入ることはできません。
墓所の前の石碑は大正8年(1919年)のものです。
こちらはの看板には、阿倍野合戦之図と、同合戦に顕家が出陣の際に後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)に送ったとされる上奏文の要訳が記載されています。その内容は、
一、西府(九州)と東関(関東)を平定するために人を遣わし、あわせて山陽、北陸等に藩鎮を置くこと。
一、戦争で疲弊した民の租税を減免し、倹約すること
一、貴族、僧侶への恩賞は、働きに応じて与えること
一、臨時の行幸や酒宴は控えること
一、法令に尊厳をもたせること
一、公家・官女・僧侶などのうちに政治に介入して政務を害する者あり 益のないものは退けること
延元三年(1338)5月15日
従二位権中納言兼陸奥守大介 臣 源朝臣顕家 上
この上奏文は、若年ながら顕家の卓越した政治理念を知ることのできる資料として、後世に高く評価されいます。
柵の隙間から墓石を撮影。
碑文は、手前の看板で紹介されていました。
「別当鎮守府大将軍従二位行権守中納言兼右衛門督陸奥権守源朝臣顕家卿之墓」
顕家の墓は、かつてこの地にあった「大名塚」と呼ばれていた塚を、江戸時代の国学者・並川誠所が享保年間(1720年頃)に北畠顕家の墳墓と比定し、建てられたものだそうです。
公園の片隅にあるプレファブの前に、「北畠顕家公ご尊像」と書かれた看板がありました。
その窓を覗いてみると・・・。
中に顕家の像があるのですが、ガラスが汚れている上に反射して、写真ではよくわからないですね。
さて、次回はもう1ヶ所ある顕家の墓を訪れます。
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by sakanoueno-kumo | 2017-10-26 23:29 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)