太平記を歩く。 その147 「賀名生南朝皇居跡」 奈良県五條市
吉野山から西南西に15kmほどのところに、「賀名生の里」と呼ばれる場所があるのですが、ここにも、かつて南朝の行宮があったと伝えられます。
延元元年/建武3年(1336年)12月28日、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)は京を逃れて吉野山に潜行しますが、その途中、天皇は一時この地に滞在したと伝えられます。
現在、ここは「賀名生の里歴史民俗資料館」と称して観光用に公園整備されています。
後醍醐天皇がこの地に滞在の理由は、真言密教に大きく帰依していた天皇が、総本山である高野山金剛峯寺への行幸を強く願っていたといい、それがかなわない場合に吉野山金峯山寺へと向かう計画だったため、高野山と吉野山のほぼ中間地点に位置する賀名生で様子をうかがっていたと伝えられます。
後醍醐天皇の跡を継いだ後村上天皇(第97代天皇・南朝第2代天皇)は、正平3年/貞和4年(1348年)、南朝の本拠地の吉野山が焼き討ちにあうと、ここ賀名生に行宮を定めました。
それから間もない正平6年/観応2年(1351年)、北朝の天皇を擁立した足利尊氏が、一時的に南朝に降伏して北朝の天皇は廃され、年号も統一されるのですが、しかし、具体的な和睦の条件は折り合わず、翌年には再び分裂します。
世にいう「正平の一統」です。
ただ、わずか数か月のことでしたが、南朝が唯一の朝廷となり、ここ賀名生はわが国の都になったことになるんですね。
その後、南朝の行宮は河内や摂津などにも移りますが、賀名生は南北朝時代を通して、度々その拠点となりました。
公園内には、「賀名生皇居跡」と伝わる藁葺屋根の古い屋敷があります。
ここは、西吉野の郷士・堀孫太郎信増の屋敷で、立ち寄った後醍醐天皇を手厚くもてなし、その後も後村上天皇、長慶天皇(第98代天皇・南朝第3代天皇)、後亀山天皇(第99代天皇・南朝第4代天皇)はこの地に入られたときも、皇居となりました。
冠木門に掲げられた「賀名生皇居」の扁額は、幕末の志士団・天誅組の吉村寅太郎の筆によるものだそうです。
墨の色がまったく色褪せてないやん!・・・と思ってしまいますが、実はこれはレプリカで、本物は隣の「賀名生の里歴史民俗資料館」に展示されています。
冠木門横に設置されていた説明板です。
屋敷はいまも「堀家」様の住居として使用されておられるそうで、見学には事前の申込みが必要だそうです。
この日は申込みをしていなかったので、外観の写真のみ。
南北朝時代に記された記録などによると、この地はもともと「穴生」・「穴太」・「阿那宇」などと表記され、「あなう」と呼ばれていたようです。
正平の一統のとき、後村上天皇は「願いがかなってめでたい」との思いから、この地を「加名生(かなう)」と名付けたと伝えられるそうです。
のちに、この地の人々は「加名生」はおそれ多いとの理由で「賀名生」に改めたといわれ、明治のはじめに読み方を「あのう」に統一したそうです。
700年近く前、わずか数ヶ月間わが国の首都となった賀名生の里。
いまは熊野路の隠れ郷といった雰囲気の静かな里です。「太平記を歩く。」シリーズの、他の稿はこちらから。
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by sakanoueno-kumo | 2017-10-22 11:35 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(2)
どうでしょう?
穴生衆は滋賀県ですよね。
ここ、賀名生は奈良県の、しかも結構南です。
同じ畿内といえば近い気もしますが、遠いといえば遠い。
関係があるのかどうかはわかりません。