太平記を歩く。 その145 「後醍醐天皇陵」 奈良県吉野郡吉野町
前稿で紹介した如意輪寺本堂の裏山に、後醍醐天皇陵があります。
この長い階段の上です。
吉野山に自ら主宰する朝廷を開くも、日夜、京都に戻る日を夢見ていた後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)でしたが、しかし、天下の形勢は天皇に利あらず、さらには、そば近くに仕えていた吉田定房、坊門清忠などの重臣が次々とこの世を去り、延元4年(1339年)8月9日、ついに病に伏します。
自らの余命幾許もないことを悟った後醍醐天皇は、8月15日、宗信法印を呼んで吉野朝の重臣たちを枕頭に集めさせ、わずか12歳の義良親王に攘夷する旨を告げ、諸国に最後の綸旨を発します。
『太平記』巻二十一の「先帝崩御事」では、後醍醐天皇の遺言を次のように伝えます。
「妻子珍宝及王位、臨命終時不随者、是如来の金言にして、平生朕が心に有し事なれば、秦穆公が三良を埋み、始皇帝の宝玉を随へし事、一も朕が心に取ず。只生々世々の妄念ともなるべきは、朝敵を悉亡して、四海を令泰平と思計也。朕則早世の後は、第七の宮を天子の位に即奉て、賢士忠臣事を謀り、義貞義助が忠功を賞して、子孫不義の行なくば、股肱の臣として天下を鎮べし。思之故に、玉骨は縦南山の苔に埋るとも、魂魄は常に北闕の天を望んと思ふ。若命を背義を軽ぜば、君も継体の君に非ず、臣も忠烈の臣に非じ。」
現代文に読み下すと、
「妻子珍宝及王位、臨命終時不随者(妻子や財宝、王位などは、死ぬときには全て置いていくものである)と言う言葉は釈迦如来の金言であり、常に私が心がけていることなので、秦国の穆公が三人の優秀な臣下を殉死させたことや、秦の始皇帝が死に望んで宝石などを来世に持って行こうとしたことなど、私には何ひとつ興味がない。ただ、この世に残す妄念は、朝敵を全て滅ぼし、天下を泰平の世にしたいう思いのみである。わが亡きあとは、すぐに第七の宮(義良親王)を天子の位に就かせ、忠臣賢臣らと相談の上、新田義貞や脇屋義助の忠義ある功績を賞し、その子孫に不義な行いがなければ、信頼できる朝臣として重用し、天下の鎮静をはからせるよう。私の骨はたとえ吉野山の苔に埋もれてしまっても、魂魄は常に北の空、都の空を望んでいる。もし私の命に背き大義を軽んずるようであれば、天皇であっても天皇ではなく、朝臣も忠義ある朝臣ではない」
凄まじい限りの執念ですね。
そして翌8月16日丑の刻(午前2時)、ついに波乱に富んだ生涯を閉じられます。
御齢52歳。
右手に剣を、左手に法華経5巻を持たれての崩御でした。
辞世の句
「身はたとえ 南山の苔に埋るとも 魂魄は常に 北闕の天を望まんと思う」
後醍醐天皇の御遺骸はその形を改めず、ここ如意輪堂の裏山に葬られ、それも、わざわざ北向きに陵が築かれました。
これも、天皇の遺言にそったものだったと言われます。
後醍醐天皇崩御から700年近い年月を経たいまも、ここ御陵の前に立つと、その無念の叫びが聞こえてくる気がします。
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by sakanoueno-kumo | 2017-10-19 22:52 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)