太平記を歩く。 その113 「下長谷の洞窟」 福井県南条郡南越前町
「その110」で紹介した金ヶ崎城跡から敦賀湾沿いに海岸線を25kmほど北上した国道305号線沿いの崖に、「下長谷の洞窟」と呼ばれる小さな洞窟があるのですが、ここは、かつて後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)の皇子・恒良親王が身を隠したという伝承があります。

延元元年/建武3年(1336年)10月13日より約半年間続いた新田義貞軍と足利方・斯波高経軍の攻防戦は、翌年の3月6日、義貞の息子・新田義顕と後醍醐天皇の皇子・尊良親王の自刃によって幕を閉じますが、尊良親王の弟でまだ13歳だった恒良親王は、金ケ崎城落城の際に気比神宮の神官が保護し、小舟に乗せてこの地に逃れ、洞窟の中にかくまったと伝えられています。

この洞窟は、長い年月をかけて少しずつ波が岩を削りできた海食洞だそうで、入り口は広く奥は狭くなっています。

入口の高さは約7m、間口はいちばん広い部分で約5m、奥行きは20mほどしかありません。
こんな浅い洞窟に身を隠しても、すぐに見つかりそうな気も・・・。

洞窟の最奥部の岩壁には、矢じりで彫った「延元二年・・・・恒良云々」の文字があると言われていますが、今はほとんど判読できないと知り、しかも、奥は子どもでも身を屈めないと進めない狭さで、わたしはこのあたりまで来て引き返しました。

ところが、帰宅してPCで洞窟のことを調べていると、文字を判読して解明されている方のブログを発見。
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今は判読できないなんて嘘じゃないですか!
こんなことなら、わたしももっと深く掘り下げるべきだった・・・と、後悔先に立たず。

洞窟内部から外を眺めます。

洞窟外に設置された説明板。

洞窟の正面は道路を挟んですぐ海で、いまは漁港になっています。

南西には敦賀湾と、原発のある敦賀半島が望めます。
そして西の海は広い若狭湾。

その後、恒良親王は足利方に捕らえられ、京都に護送されました。
『太平記』では、弟の成良親王らとともに花山院第に幽閉され、その後、共に毒殺されたと伝えられ、その墓所も不明です。
また、同じく『太平記』によると、後醍醐天皇は恒良親王に譲位し、新田義貞らと共に北陸に向かわせたとも伝えられます。
これは『太平記』にしか見られない逸話ですが、恒良親王は金ヶ崎城から各地の武将に綸旨(天皇の命令書)を発給しており、自らを天皇と認識していたことは事実のようです。
でも、だったら、なんで年長の尊良親王に譲位せず、年若の恒良親王に譲位したんでしょうね。
結局、後醍醐天皇が吉野朝(南朝)を開いたことにより、恒良親王の皇位は無効となり、歴代天皇には数えられていません。
たぶん、北朝の天皇と同じく、偽の三種の神器を持たされていたんでしょうね。
自身の野望のためなら皇子も謀る。
さすがは後醍醐天皇です。「太平記を歩く。」シリーズの、他の稿はこちらから。
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by sakanoueno-kumo | 2017-08-30 21:50 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)