太平記を歩く。 その109 「東寺」 京都市南区
後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が比叡山に入ると、京を占拠した足利尊氏は、はじめ男山八幡に陣を布いて比叡山に総攻撃を仕掛け、その後、延元元年/建武3年6月14日に、ここ東寺に布陣しました。
東寺は、世界文化遺産に登録されている京都の顔です。

九条通りに面した正門・南大門です。

そして南大門を潜ると、国宝・金堂が正面に見えます。

金堂は1200年以上前からあったとされますが、現在のものは慶長8年(1603年)に豊臣秀頼の寄進によって再建したものだそうです。

こちらは重要文化財の講堂。

そして、こちらが有名な五重塔。
国宝です。

東寺のみならず京都のシンボルとなっている塔で、高さ54.8mは、木造塔としては日本一の高さを誇ります。

尊氏が東寺に入ると、名和長年や四条隆資など後醍醐天皇方の武将が次々に東寺に攻め込みますが、名和長年は討死し、四条隆資は足利方の土岐頼直に阻まれ、上手く進軍できません。
そんななかの延元元年/建武3年6月30日、新田義貞率いる2万の軍勢が猛然と大宮通りを東寺に向かって進軍し、六条大宮付近で足利軍の激しく激突。
苦戦した足利軍は東寺の東大門から境内になだれ込み、最後の一人が境内に入ると同時に東大門は閉ざされました。

ここが、外側から見た東大門ですが、平成29年(2017年)5月現在、修築工事中とのことで、養生柵に囲われています。

柵の上に腕を伸ばして撮影。

こちらは、境内から見た東大門。
工事関係者の車両が停まっています。
邪魔だなあ・・・。

その説明板。
通称「不開門(あかずのもん)」と呼ばれているそうです。

足利方によって東大門が閉ざされると、新田軍はその門めがけて無数の矢を放ったといいます。
義貞が門外より尊氏に一騎打ちを挑んだそうですが、尊氏はその挑発にのることなく、その後も東大門が開くことはありませんでした。
そんな由来で、「不開門(あかずのもん)」と呼ばれるようになったのだとか。

門扉には新田軍が放った矢の跡があると聞いてきたのですが、残念ながら工事が終わるまで見ることはできなさそうです。

こちらは、この戦いより半年間、尊氏が居館としていたと伝わる食堂です。

そして、こちらはその間、光厳上皇(北朝初代天皇)の行宮となった小子坊。

正門の門扉は菊の御紋です。

この新田軍の総攻撃が失敗に終わったことで、その後、後醍醐天皇方の形勢は厳しくなり、やがて後醍醐天皇は足利方の和平工作に応じ始めます。
しかし、義貞にはこの事実は知らされておらず、義貞がこのことを知ったのは、和議を結ぶ当日でした。
これを知った義貞の家臣・堀口貞満が涙ながらに後醍醐天皇の無節操を非難して訴えるシーンが『太平記』に描かれます。
しかし、結果的に後醍醐天皇は、義貞を切り捨てるかたちをとりました。
一方で、天皇はこの和議は一時的な「計略」であるとの旨を義貞に伝え、それを義貞に知らせなかったのも計略が露呈して頓挫することを防ぐためだったと取り繕います。
これを聞いた義貞は、恒良親王、尊良親王を奉じて北国へと下向させてほしいと提言し、後醍醐天皇もこれを受け入れます。

後醍醐天皇による新田一族切捨てと尊氏との和睦は、『太平記』にしか見られない記述であり、創作の疑いも拭いきれません。
しかし、この日を機に後醍醐天皇方が2つに分裂したのは確かで、何らかの行き違いがあったのは間違いないでしょう。
義貞が恒良親王と尊良親王を奉じて北陸入りしたのは、自身が逆賊扱いされないための人質だったのかもしれません。
というわけで、次回から北陸の新田義貞らの足跡を追います。
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by sakanoueno-kumo | 2017-08-23 22:15 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)