太平記を歩く。 その106 「雲母坂~雲母坂城跡」 京都市左京区
延元元年/建武3年(1336年)5月25日の湊川の戦いで楠木正成が討死し、退却した新田義貞が京に戻ってくると、足利尊氏軍の追撃を防ぐため、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)を京から比叡山に移します。
そして、東坂本(現在の滋賀県側)を新田義貞と名和長年が守り、西坂本(現在の京都府側)を、後醍醐天皇の皇子・尊良親王と、千種忠顕が守りました。
そして6月7日、尊氏の弟・足利義直の軍勢が西坂本に攻め寄せ、雲母坂(きららざか)で激しい戦闘となります。
比叡山につながる登山道・雲母坂は、現在ハイキングコースとなっています。
叡山電鉄修学院駅から登山道に向かう途中には、「千種忠顕卿遺跡是ヨリ三十町」と刻まれた古い石碑があります。
雲母坂へは、音羽川沿いに上流を目指して歩きます。
前方には、標高848mの比叡山が聳えます。
川沿いを10分ほど歩くと、雲母坂の入口、雲母橋に到着します。
橋を渡ると「親鸞上人旧跡きらら坂」と刻まれた石碑が。
雲母坂は平安時代から都と比叡山を結ぶ主要路として利用され、浄土真宗の宗祖とされる親鸞が、9歳のときに出家して叡山修行のためこの坂を登り、29歳のときに叡山と決別し、この坂を下りたと伝わります。
石碑を過ぎると、いよいよガッツリ登山道です。
登山道に入ってすぐのところにある、「雲母寺跡」と刻まれた小さな石碑。
雲母寺は平安時代に建立された寺院で、現在は別の場所に移設されています。
雲母坂の登山道は長年の浸食によって深いV字形になっており、谷底を歩いているような気分になります。
足利軍が雲母坂から西坂本へ攻撃してきたのを見た千種忠顕は、京の南に布陣させている四条隆資に背後をつかせて足利軍を挟み撃ちにする作戦を立てていたといいますが、四条軍も苦戦しており、雲母坂に駆けつけることができませんでした。
また、万一の場合、東坂本を守る新田義貞と名和長年が西坂本に駆けつける手はずとなっていましたが、それも上手く連携がとれず、千種軍は全滅、忠顕も討死します。
雲母橋から30分ほど登ると、標高330mあたりで少し尾根道になるのですが、しばらく尾根道を進んだところに、こんもりとした丘陵があり、なにやら標示板が見えます。
近づいて見てみると、なんと、「きらら坂城跡」と記されています。
えっ? ここって城跡だったの?
早速スマホでググってみると、築城年代や築城者については詳らかでないものの、土塁跡が約70~80mに渡っており、城跡と考えられているようです。
城跡というより、砦跡といった方がいいのかもしれません。
その立地から考えて、千種軍と足利軍の戦いにこの砦が利用されなかったはずはないでしょうね。
どちらがここを陣としたかはわかりませんが、ここから少し登ったところに、足利軍が陣を布いた「水飲」というところがあり、あるいは、ここも足利軍に占領されていたかもしれません。
で、城跡から10分ほど登ったところにある、「水飲」です。
端には「水飲対陣の碑」が建てられています。
「水飲」という名称は、道の南下に音羽川のせせらぎが流れ、参拝者の疲れや渇きをいやしたことからつけられたと推測されているそうです。
たしかに、川のせせらぎの音が耳を和まさてくれました。
『太平記』によると、ここ「水飲」に陣を布いた足利軍は、ここから三手に分かれて攻撃を開始し、千種軍もよく防戦したものの、足利軍に背後をつかれて一人残らず討死したといいます。
「水飲」から200mほど登ったところに、「浄刹結界趾」と刻まれた石碑があります。
この浄刹結界は比叡山と外界との境界線で、かつてはここから先には女人が入ることが禁じられていました。
この石碑は、大正10年(1921年)3月に建てられたものです。
ここをさらに30分近く登ると、「千種忠顕戦死之地」と伝えられる場所があるのですが、長くなっちゃったので次稿にて。
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by sakanoueno-kumo | 2017-08-17 23:48 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)