太平記を歩く。 その99 「処女塚古墳」 神戸市東灘区
神戸市東灘区御影町にある「処女塚古墳」にやってきました。
「処女塚」と書いて「おとめづか」と読みます。
前稿で紹介した「生田の森の戦い」から敗走した新田義貞軍が、追撃してきた足利軍に追いつかれたのが、ここ処女塚古墳だったと伝わります。

義貞は味方の軍勢を落ち延びさせるため一人踏ん張りますが、義貞の乗る馬が敵の矢に射られて倒れてしまいます。
『太平記』巻16「新田殿湊河合戦事」では、このときの様子を「義貞の乗られたりける馬に矢七筋まで立ける間、小膝を折て倒けり」と伝えています。

身動きの取れなくなった義貞は、処女塚の墳丘に駆け上り、敵の激しい攻撃を受けました。
足利軍の矢が雨のように降るなか、義貞の気迫もすさまじいもので、「鬼切・鬼丸とて多田満仲より伝たる源氏重代の太刀を二振帯れたりけるを、左右の手に抜き持て」と、二刀流を使って敵に立ち向ったと『太平記』は伝えます。

この義貞の窮状をはるか遠くから眺めて気づいた新田方の小山田太郎高家が、これまで義貞から受けた恩義を感じ、すぐさま処女塚の上に駆け寄り、自分の馬に義貞を乗せ、高家は塚の上にとどまって、義貞を東へ逃れさせました。
義貞に代わって足利軍の攻撃に立ち向かった高家でしたが、味方の敗色は濃く、ついに墳丘の上で討死しました。
しかし、高家のおかげで、義貞は何とか京へ落ち延びることができました。

『太平記』が描くこの小山田太郎高家の武勇を称え、処女塚の東脇には高家の碑が建てられています。

現地説明板によると、この石碑は弘化3年(1846年)に代官の竹垣三左衛門藤原直道が、東明村塚本善左衛門・豊田太平・牧野荘左衛門に命じて建てさせたものだそうです。

ところで、なぜ高家は、自らの命を犠牲にしてまで義貞を助けたのか・・・。
『太平記』によると、高家が従軍中、兵糧に困り付近の農家の麦を刈り取ったことから、軍法で死刑を宣告されますが、そのとき義貞が、「武将に兵糧の不自由をさせたのは自分の責任だ」と、麦の代金を畑の持ち主に支払い、麦を高家に渡しました。
このことから、高家は義貞に大きな恩義を感ずるようになったといいます。
実話かどうかは定かではありませんが、高家を庇った義貞も、そして義貞を守った高家も、どちらも武士の鏡といえるでしょうか。
処女塚古墳については、以前の稿「神戸の古墳めぐり その4」でも紹介していますので、
「太平記を歩く。」シリーズの、他の稿はこちらから。
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by sakanoueno-kumo | 2017-08-05 22:22 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)