三木合戦ゆかりの地めぐり その24 ~中道子山城(赤松城)跡~
中道子(ちゅうどうしさん)城と読みます。
その呼び名のとおり、赤松氏一族の居城でした。
場所は、志方城から北東へ3kmほどのところにある標高270メートルの山上で、下の写真の右奥の山上に白い看板のようものが見えますが(登ってみると、関西電力の反射板でした)、あのあたりに城跡があります。
メタボのわたしにはちょっとキツイ登山ですが、意を決して登ることに・・・。

地元では「志方の城山」と呼ばれているようです。


やはり、ここでもこの看板が迎えてくれます。

山頂まで約2kmの登山です。
最初は、舗装された道(車の乗り入れは禁止です)を登っていくのですが、しばらくすると、こんな表示板が出てきます。


普通の登山道と旧登山道の選択表示。
このまま進むと残り1kmのところが、旧登山道を通ると約600mとあり、かなりの近道です。
ただ、かなりハードそうで・・・。

思案のすえ、48歳の若者であるわたしは、旧登山道を選びました。

しかし、しばらく進むと大後悔。
キツイのなんのって、息切れしまくりです。

昔の人は、毎日こんなキツイ山道を重い刀を腰に下げて登っていたんですね。
以前、俳優の渡辺徹さんが大河ドラマに出演したとき、「あんな太った奴は戦国時代にはいない」と、視聴者からクレームが入ったというエピソードを面白おかしく話されていましたが、たしかに、毎日こんな山道を歩いていたら、メタボになることはなかったでしょうね。

で、休憩をはさみながらなんとか山頂にたどり着いたのですが、そこで目にしたのは、目を見張る遺構の数々。
しんどい思いをした甲斐がありました。

上の写真は大手門跡です。

櫓台跡です。

こちらは二の丸跡。
山の麓から見えた白い反射板のあった場所です。


本丸に入る城門跡には、案内板が設置されています。

本丸跡です。
本丸の敷地だけでもかなりの広さで、中道子山城がいかに大きな城であったかがわかります。

その片隅には、「赤松城址」と刻まれた石碑があります。

本丸跡からの眺望です。
山頂から見た北東の景色で、志方城や太閤岩とは反対方向になります。

中道子山城の築城時期は明らかではありませんが、南北朝時代に赤松則村(円心)の四男・赤松氏範が築城したと伝わります。
その後、嘉吉の乱や応仁・文明の乱を経て、三木合戦の際には孝橋秀光が城主だったとも、志方城主の櫛橋氏が城代を務めていたともいいますが、正確なことはわかっていません。

羽柴秀吉軍に包囲された中道子山城の籠城軍は、山肌一面に竹の皮を敷き詰めて滑りやすくして迎え撃ちますが、秀吉軍はその竹の皮に火をつけ、山は瞬く間に火の海になったといいます。
籠城軍はその消火のために兵糧米をばら撒きますが、火の勢いは収まらず、食料である米もなくなったことから、降伏に至った・・・という伝承があります。
実話かどうかは定かではありませんが、発掘調査では炭化した米が出土したそうで、落城時に火災があったことは事実のようです。

その兵糧米が保管されていたであろう、米倉跡です。

三の丸跡には、おびただしい数の石仏群がありました。
これは、いつの時代に誰が造ったものでしょう?

井戸郭跡です。
この井戸にも逸話がありまして、井戸に落ちた姫君の霊がでるそうです。
本当かどうかはわかりません。

立派な遺構の数々を堪能したあと、帰りは新登山道で帰りました。
48歳以上の年寄りの方には、こちらの道をおすすめします(笑)。

今回はずいぶん長くなっちゃいました。
次回に続きます。
「三木合戦ゆかりの地めぐり」シリーズの他の稿は、こちらから。
↓↓↓
三木合戦ゆかりの地
ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
↓↓↓


by sakanoueno-kumo | 2015-06-17 18:17 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)