三木合戦ゆかりの地めぐり その21 ~生石神社(石の宝殿)~
ここは国の史跡にも指定されている古い神社で、創建は崇神天皇(第10代天皇)の時代だといわれています(崇神天皇は、実在性が高い最古の天皇といわれている天皇です)。
鳥居をくぐると160段の階段を登らなければなりません。

階段を登りきったところの境内の入口が、非常に狭くなっています。
身長168cmのわたしが、ぎりぎり頭を打たない高さで、要注意です。

天正7年(1579年)の三木合戦当時、この生石神社の神主は神吉城主・神吉頼定の弟だったと伝えられます。
神吉城攻略を開始した羽柴秀吉は、ここを陣所として貸与するよう申し出たそうですが、神主はこれを頑なに拒否したといいます。
神吉城は兄の城ですから、当然ですよね。

これに怒った秀吉は、弟の羽柴秀長に命じて神社を焼き討ちに遭わせました。
このとき、古代より伝来されたほとんどが灰燼に帰してしまったそうです。

神殿の入口に「石乃寶殿」と書かれた看板がありますが、ここ生石神社のご神体は、石の宝殿と呼ばれる巨大な石造物なんです。

現地の説明板のよると、巨石の容積は横6.4m、高さ5.7m、奥行7.2mで、重さは500~700トンあるそうです。
巨石は三方を岩壁に囲まれ、下は池になっており、水面に浮かんでいるように見えることから、「浮石」とも呼ばれているそうです。

エリアが狭いので広角で撮っても全景を収めることが出来ません。
一緒に写っている娘は、身長150cmですので、スケール感がわかっていただけるでしょうか?

続いて身長168cmのわたしです(笑)。
巨石の所々に赤い部分がありますが、これは、秀吉によって焼き討ちに遭ったとき、変色したものだと考えられているそうです。

巨石の背面部分には、写真のような突起物があります。
どう見ても自然にできたものではなく、何かの目的で造ったものだということがわかります。
なんとなく、ブラウン管テレビの背面に似ています。

神話めいた話ではいろいろあるようですが、実際には、いつ、誰が、何のために造ったものなのか、また、完成品なのか未完成なのか、まったく謎の物体です。
神がつくった神殿説や、大王の石槨説など、さまざまな諸説が展開されています。
奈良時代の『播磨国風土記』に、家の形をした「大石」として登場しているそうで、少なくとも1300年以上前から存在していたことがわかっているそうです。
でも、そんな大昔に、こんな重い物体をどうやってここに運んだのか、あるいは、ここで造ったのか、疑問はつきません。
この巨石は、宮城県は鹽竈神社の塩竈と、宮崎県は霧島神宮の天逆鉾と共に、「日本三奇」と呼ばれているそうです

ご神体を上から眺めた写真です。
こうして見ても、つくづくミステリアスな物体ですね。
もしかして宇宙人の仕業?・・・なんて、SFチックな想像にかき立てられます。

境内の裏には小高い山があり、現在は公園として整備されています。
頂上には、「大正天皇行幸之跡」と刻まれた記念碑がありました。

そこからの眺望です。
ここからは、神吉城のみならず、加古川市ほぼ全域が見渡せます。
なるほど、秀吉がここを陣所にしたかった理由がわかりますね。

ここの最寄りのJRの駅名は「宝殿」といいます。
子供の頃、変わった駅名だなぁと思っていたのですが、その由来はここ石の宝殿だったんですね。
三木合戦ゆかりの地めぐりで訪ねた当地でしたが、思わぬパワースポットで神秘的な空間を楽しめました。
次回は、黒田官兵衛の妻・光の生家だった志方城跡を訪れます。
「三木合戦ゆかりの地めぐり」シリーズの他の稿は、こちらから。
↓↓↓
三木合戦ゆかりの地
ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
↓↓↓


by sakanoueno-kumo | 2015-06-05 19:00 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)