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雨の佐土原城攻城記。 その2 <中の道登山口~登山道>

「その1」のつづきです。

前稿で麓の遺構を歩いたので、佐土原城の山城に登る中の道登山口からのスタートです。


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登山口に設置されていた説明板。


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赤色立体図の案内板も。


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いざ!出陣!


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この日はあいにくの、本当は山城を登るようなコンディションではないのですが、宮崎県なんて次にいつ来れるかわからないし、標高72m、比高60mほどの低い山だし、強行することに。


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写真ではわかりづらいですが、けっこう降っています。


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階段を滝のように雨水が流れています。

こんな日に登山なんて、アホのすることですね(苦笑)。


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最初に佐土原城が築かれたとされるのは、鎌倉幕府滅亡直後の建武年間(133438年)と言われます。

その頃の佐土原城は、一般には「田島城」の名で知られ、平安時代に九州へ渡った藤原秀郷の子孫とされる日向伊東氏の一族田島氏が築城したと言われます。

田島氏はここに拠点を構えましたが、やがて主家である日向伊東氏が田島氏を追い、田島城に入りました。

田島城主となった日向伊東氏の分家は「佐土原氏」と称していたため、この頃から城の名も「佐土原城」と呼ばれるようになったようです。


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文明12年(1480年)、日向伊東氏本家の5代当主・伊東祐堯の子である伊藤祐国が、佐土原氏の養子になりました。

やがて祐堯は病没し、祐国が6代当主となりますが、飫肥城をめぐる島津氏との戦いのなかで討ち死にしてしまいます。・

その後も日向伊東氏の勢力は徐々に衰え、天文6年(1538年)には、佐土原城も焼失してしまいます。


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階段を上ると、山肌が露わになっている場所が。


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説明看板によると、崖面にある人工的な穴は、虎口の城門を取り付けた痕跡ではないかと考えられているそうです。


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それが、この穴。

たしかに自然の穴ではなさそうですね。


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先を進みましょう。


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「曲輪」と書かれた説明板が。


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どうやらこの上が曲輪のようです。


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曲輪です。

あずまやがあります。


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先に進みます。


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城道が三叉路になっている場所にでました。

正面は本丸切岸ですが、本丸に行くには北か南に回り込まないといけない仕組みですね。


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北側は雨で水浸しだったので、南側に向かいます。


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そして、魅力的な遺構が見えてきましたが、「その3」につづきます。



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# by sakanoueno-kumo | 2024-11-07 14:35 | 宮崎の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

雨の佐土原城攻城記。 その1 <二ノ丸~中の道登山口>

宮崎県日南市の飫肥城を訪れたあと、夕方の飛行機までまだ時間があったので、空港のある宮崎市を通り過ぎて北上し、佐土原城に向かいました。

ここも、飫肥城と同じく島津氏伊東氏の間でシノギを削った城です。


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佐土原城は標高70mほどの鶴松山と呼ばれる小山を利用した山城で、山頂に本丸、本丸の南方向の尾根に南の丸、さらに続く尾根に松尾丸があり、近世に入ってからは、山麓の平地に二ノ丸、三ノ丸が設けられました。


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現在、その二ノ丸跡に御殿が再建されています。


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慶長8年(1603年)、征夷大将軍となった徳川家康は、島津氏の分家の島津以久に日向佐土原3万石を与え、佐土原城主としました。

御殿は、寛永2年(1625年)に2代藩主の島津忠興が建てたと考えられています。


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ここにあった御殿は山下屋敷といい、明治期まで存在していたにも関わらず、絵図などが残っておらず、その構造がはっきりしていないそうです。

再建された御殿は、発掘調査の成果と、『佐土原藩職制遺考』に見られる建物名を参考にしているそうです。


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それによると、上御門をくぐると正面に大広間、次に書院2棟があったことは確実で、藩主の御座所であった書院には、上段の「金の間」「敷舞台」があり、そのほか「政事之間」「記録所之間」「鶴之間」「虎之間」「大奥之御座所」などが設けられていました。


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その説明板。


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発掘調査により庭園遺構も確認され、復元されています。


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その説明板。


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建物の中にも入れたのですが、飛行機の時間もあり、とりあえず先に本丸を目指して、下山して時間があれば中を見ることに。

御殿の西側には段曲輪のような芝生広場が広がります。


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こちらの標柱には、「御厩役所跡」とあります。

馬を管理していた場所でしょうね。


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こちらの標柱には、「御代官所跡」とあります。

悪代官所跡ではありませんでした(笑)。


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ここは「反米役所跡」とあります。

「反米」ってどういうこと?

反アメリカ?・・・ではないよね!(苦笑)


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「御普請所跡」と書かれた標柱の横に、海鼠塀の建物があったのですが、これは何でしょう?

御普請所の再建?・・・にしては、アルミサッシだし、壁はサイディングボードだし!

海鼠塀だけそれ風にしたって感じなのかな?


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さて、山城の登山口に着いたところで、「その2」につづきます。



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# by sakanoueno-kumo | 2024-11-05 17:04 | 宮崎の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

雨の飫肥城を歩く。 その4 <豫章館・小村寿太郎記念館>

「その3」のつづきです。

飫肥城城跡公園内はひととおり歩いたので、再び大手門を出て歩いてみました。


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大手門の南側の通りは武家屋敷通りと呼ばれています。


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この日はずっと土砂降りの雨でしたが、通りの石垣が濡れて、それもまたいい感じ。


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大手門を少し南下すると、古い薬医門があります。

ここは、豫章館という格式高い屋敷の門で、最後の飫肥藩主となった伊東祐帰が、明治2年(1869年)の版籍奉還知藩事になり、城内から移り住んだ屋敷だそうです。


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その説明板。

豫章館の名称は、当時邸内にあった樹齢数100年の大楠にちなんで名付けられたそうです。


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土砂降りの雨の中、せっかくなので見学に入ってみることに。


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豫章館主屋

玄関は千鳥破風の屋根を構えて表玄関脇玄関があります。


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中には入れません。


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なので、外から中を見学します。


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主屋は6部屋をL字型に配置しています。


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縁側がいい感じ。


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庭園です。

邸内は6500あるそうです。


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雨が残念。


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庭園側から見た主屋。

屋根は元は茅葺だったそうですが、昭和初期に瓦葺きにしたそうです。


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これは裏門かな?


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さらに邸内の奥に進むと、御数寄屋という茶室があります。


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御数寄屋です。

明治41年(1908年)に建てられたそうです。


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つづいて、豫章館の向かい側にある小村寿太郎記念館に立ち寄りました。

ちょうど今、NHKスペシャル大河ドラマ『坂の上の雲』の再放送をやっているので、旬の起稿ですね。

言うまでもなく、日露戦争時の外務大臣です。


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この日、わたしはここを小村寿太郎の生家跡と勘違いしていたのですが、ここは伊東家の邸跡で、寿太郎の生家はもう少し北東になったようです。

痛恨の勘違い。


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小村寿太郎記念館です。


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小村寿太郎の功績といえば、やはり日露戦争前に外務大臣として日英同盟を締結させたこと、そして、日露戦争における戦時外交を担当し、戦後のポーツマス会議では日本全権としてロシア側の全権ウィッテと交渉し、ポーツマス条約を締結させたことでしょう。


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ポーツマス条約の内容を簡単に言うと、朝鮮半島については、ロシアは韓国に対する日本の指導権を認め、また、中国については、ロシアは旅順・大連の租借権、長春以南の東清鉄道とその付属利権を日本に譲りました。

ここまでは日本に有利な内容ですが、一方で、ロシアは日本に対して一切の賠償金を支払わず、領土については、日本軍が占領していたサハリン島のうち南半分を日本の領土とし、ロシアが有していた中国東北部の権益は日本に譲渡される、というものでした。


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日本は勝ったはずなのに、賠償金がないなんておかしい・・・と思った人、それは歴史の誤認識です。

日本は日露戦争に勝ったわけではありません。

アメリカ大統領セオドア・ローズヴェルトの仲介によって、上手く講和に持ち込んだだけなんです。

つまり、からくも引き分けたってこと。

ここの認識を間違えると、この時代の歴史は見えてきません。


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ところが、連戦連勝と聞かされていた国民は、新聞が報道した条約の内容を不満として全権の小村を非難攻撃し、東京では電車の焼き討ちや交番の襲撃などの過激な事件が起こり、小村の家族を脅迫する者や、襲撃しようとしたりする者もいました。

いつの時代も、大局を見ずに過激な行動に走るヤカラはいますね。


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司馬遼太郎さんは『坂の上の雲』のなかで、小村の外交をべた褒めしています。


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もう一度いいます。

日本は日露戦争に勝ってはいません。

小村寿太郎をはじめとする有能な明治政府の外交によって、「負けなかった」だけです。

ところが、国は国民にその真実を告げず、勝利を絶対化し、日本軍の神秘的強さを信仰させ、やがて狂躁の昭和期にはいっていきます。


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話が固くなっちゃいました。

小村寿太郎記念館を出て、おび天茶屋に立ち寄りました。


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ここは江戸時代に飫肥藩の藩役所の置かれたところで、現在は飫肥の名物・おび天をはじめ、郷土料理を味わえるお店となっています。


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これが、そのおび天


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魚肉のすり身と豆腐を混ぜて揚げたものだそうで、見た目はさつま揚げみたいですけど、豆腐が入っているので、ふわっふわの食感でした。

お土産に買って帰りました。


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おび天を食べたところで、飫肥城をあとにしましたが、まだ飛行機まで時間があったので、もう一か所城めぐりしました。

次稿につづきます。


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# by sakanoueno-kumo | 2024-10-29 16:41 | 宮崎の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

雨の飫肥城を歩く。 その3 <旧本丸跡>

「その2」のつづきです。

飫肥城旧中ノ丸跡(新本丸跡)をあとにして、旧本丸跡に向かいます。


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石段を登ると、ドドーンと大きな枡形虎口があります。

おそらく両側の石垣は櫓門の台でしょう。


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向かって左側の石垣。

さぞ立派な櫓門があったのだろうと想像できます。


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間口がデカくて画角に入りきらない。


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桝形内です。


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さらに石段を登って、上から見おろした枡形。


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いろんな角度から。


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そして旧本丸です。

現在は樹齢100年を超える飫肥杉がたくさん茂っています。

2004年放送のNHK朝ドラ『わかば』のロケ地となっていたそうで、ヒロインの若葉が落ち込んだ時に元気を取り戻した場所としてたびたび登場したそうです。

わたしは観てないけど。

ドラマ終了後も「癒しの森」と言われているそうです。


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南北朝時代から戦国時代にかけて、飫肥城は伊東氏島津氏の争いの舞台でもありました。

その因縁は、伊東祐国が飫肥へ侵入し、島津軍との乱戦のなかで戦死したことに始まります。

伊東氏による侵攻を恐れた島津氏は、戦いの原因となった飫肥城主を交代させ、以後、飫肥城を島津氏が支配するようになります。

しかし、当主を討たれた伊東氏の怒りは凄まじく、その後も断続的に伊東氏による飫肥侵攻がつづきます。


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祐国の孫である伊東義祐のとき、伊東氏は佐土原城を本拠に48の支城を擁して日向一国をほぼ支配下におさめ、位階も従三位に昇るなど最盛期を迎えました。

宿敵島津氏との抗争でもしばしば圧倒し、永禄11年(1568年)にはついに飫肥城を奪取。

次男の祐兵(すけたか)を飫肥城主とします。


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しかし、元亀3年(1572年)の木崎原の戦いで伊東氏は島津氏に大敗を喫し、さらに天正5年(1577年)に島津氏の再侵攻を受けると、飫肥城は落城します。

またまた島津氏の手に落ちた飫肥城でしたが、逃げ延びた伊東祐兵は、当時破竹の勢いだった羽柴秀吉に接近し、本能寺の変後は秀吉の配下として山崎の戦い賤ケ岳の戦いでも活躍し、天正14年(1586年)からの九州平定戦では先導役として抜擢され、その功によって、天正15年(1587年)、祐兵は10年ぶりに飫肥城主に返り咲きました。

飫肥城をめぐる伊東氏と島津氏の抗争は、100年余りの戦いの末にようやく決着をみることになります。


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この日は写真でもわかるぐらいの大雨。

「癒しの森」が「水浸しの森」です(苦笑)。


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周囲を土塁が囲っています。


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これは仕切り土塁でしょうか?


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旧本丸から見下ろした旧中ノ丸(新本丸)

小学校の校庭が見えます。

旧本丸は寛文2年(1662年)、延宝8年(1680年)、貞享元年(1684年)の三度の大きな地震で地割れが発生し、中ノ丸に移転することになりました。

以後、中ノ丸が本丸となります。


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本丸北側には門があります。


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土塀つきの薬医門です。

古図によると「北門」とあります。

これも昭和の再建です。


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北門をくぐると、下には中学校のグラウンドが広がっています。

古図によると、西の丸、中の城、北の城、松の丸などの小さな曲輪があったようです。


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外側から見た北門


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下に降りてきました。

本丸との高低差がわかるでしょうか?


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関ヶ原の戦いでは、伊東氏は東軍側につき、江戸時代には51000の所領を保つことができました。

以後、幕末まで14代、飫肥藩は伊東氏の支配がつづくことになります。


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さて、本丸まで制覇しましたが、次は城下町を少し歩いてみたいと思います。

「その4」に続きます。



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# by sakanoueno-kumo | 2024-10-25 17:38 | 宮崎の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

雨の飫肥城を歩く。 その2 <旧中ノ丸西門~松尾丸>

「その1」のつづきです。

前稿で犬ノ馬場から旧中ノ丸南門を進みましたが、もう一度犬ノ馬場に戻って、今度は西側の門から旧中ノ丸に入ります。

なぜ中ノ丸に「旧」を付けるかというと、江戸時代中期の地震によって当時の本丸が使えなくなり、中ノ丸が本丸になったからです。

つまり、旧中ノ丸は新本丸ってことです。


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犬ノ馬場から見た旧中ノ丸南側の石垣土塀

めっちゃ雨が降っていることが写真でもわかりますね。


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西側の枡形虎口に向かって石段を北に進みます。


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外桝形内に高い杉の木が4本あります。


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看板を見ると、「しあわせの杉」とあります。

この4本の杉の中心に立つと幸せのパワーがもらえるそうです。


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立ってみました。

幸せになれるかなぁ(笑)。


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桝形虎口から中に入ると、またまた枡形になっています。

二重桝形の構造。


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でも、これは公園整備時の桝形かな?

雁木は古いものに見えましたが。


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旧中ノ丸に入る前に、西側の松尾丸に行ってみましょう。


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このあたりは旧本丸南側の石垣です。


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松尾丸の説明板。

昭和54年(1979年)に再建された書院造の御殿があります。


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せっかくなので、入ってみることに。


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建物は延床面積約800㎡で、御座の間、御寝所、涼櫓、茶室など20室以上の部屋があります。


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御座の間


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縁側の廊下ですが、雨が降っていたとはいえ、アルミサッシは萎えるなぁ。


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納戸


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御化粧ノ間


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二ノ間


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御寝所


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御手洗所とありますが、現代のお手洗い(トイレ)ではなく、ホントに手洗い場のようです。


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浴室(行水所)とあります。


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その脱衣室


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殿様御厠だそう。

さすが、お殿様のトイレは畳敷きです。


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中庭

やっぱ、アルミサッシが萎えるなあ。


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湯殿です。


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この湯殿は京都西本願寺の国宝飛雲閣の湯殿(重要文化財)の複製だそうです。


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まだまだ御殿内は見どころがたくさん。


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御殿を出て松尾丸を後にし、旧中ノ丸跡にやってきました。

現在、旧中ノ丸跡には飫肥小学校があります。


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旧中ノ丸跡に設置されていた説明板。

説明文に修正箇所が多いですね。

ちゃんと校正してから設置しないと!


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戦国時代は代々島津一族が城主であったが、天正15年(1587年)に飫肥藩初代伊東祐兵豊臣秀吉から飫肥を領地として与えられて以降、明治時代まで伊東氏の居城となった・・・とありますね。

そのあたりの詳しい話は、次稿にて。


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さて、旧中ノ丸跡まで制覇しました。

次は旧本丸跡に向かいます。

「その3」に続きます。



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# by sakanoueno-kumo | 2024-10-23 17:37 | 宮崎の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)