『サイバーパンク:エッジランナーズ』と"語り手"について - Paradism

『サイバーパンク:エッジランナーズ』と"語り手"について

幾人かの友人達に「観てみて」と言われていた『サイバーパンク:エッジランナーズ』をようやく観ました。一言で言えば後味に苦みのある耐え難き心境を迎えているわけなんですが、そんな今の感情が落ち着きを取り戻し凪いでしまう前に一度文字に起こしておきたく、今この記事を書いています。

 

あーなんかこの後味の苦さっていうか複雑で居たたまれなくて、何も出来ないのに何とかならないのかな…と意味もなく藻掻いてる感覚は前にもあったんですが。それがなんの作品だったのか。もはや作品ですらなかったのかとか観終えてからずっと思い出せなくて、うーんと考えていたりしたら、黒沢ともよさん繋がりで『アクダマドライブ』だと思い出すことが出来ました。あの作品も観終えた後わりと辛かったのを覚えていて。"運命" なんて言葉に託してしまえばいずれの物語も "仕方がなかった” で要約出来てしまうと思うんですが、まあでもやっぱりどうしたって普通に辛くなってしまうのはある意味この作品が描き示し続けていたであろう人間性の賜物でもあると思うので、この物語の結末を変に受け入れたりせず、今抱いている苦しさと向き合いながら胸の奥に大事にとっておきたいなと思っています。

 

ただそんな中でも結構感銘を受けたというか、ああ素敵だなって思えた瞬間もあって、その最たるシーンが8話にありました。医療ラボをデイビット達が立ち去った後にリパードクが言っていた「語り継いでやるよ」という台詞と、あのシーンです。もう後には引けなくなったデイビット達が最後の抑制剤を受け取り、これでデイビットたちは生きて返って来れないだろうというドクの計らいから出た言葉でもあると思うんですが、結局人はいつの日か死を迎えてその存在自体は跡形もなくなってしまうんですよね。でもだからこそ、"生きていた" 証というか、それそのものの物語って誰かが語り継いでいく必要があると思うんです。ようは語り手が必要なんですよね、人生には。もちろんそれは語り手のフィルターを通して語られる物語になっていくので、脚色や抜け落ちの要因にも成り得ていくんですけど、でもそうやって誰かが誰かを語り継いでいくからこそ残るものって確かにある。当時の状況とか、心境とか、言葉とか、思想とか。決してデータだけでは残せないものも言葉でならあるいは残していくことが出来るのかも知れない、そんな希望的観測がある。

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これって例えば『千年女優』とか『平家物語*1』もそうですし、最近観た作品だと『サマータイムレンダ』とかもそうだったと思います。死に逝く人々、隠された感情、消えていく記憶。大切にその手で抱え込んでいたものが、気づけば指の隙間から零れ落ち、消滅していってしまう感覚というか。誰かが語らなければ "無かった" ことにさえなってしまう恐怖が各々の物語には内包されているわけです。それは『サイバーパンク:エッジランナーズ』や『アクダマドライブ』でも同様で、どれだけ悲しい結末であっても、それぞれの世界で必死に生きた人々の証を継承していく力学がそれぞれの物語ではしっかりと働いている。あるいは "救い" とも呼べるかも知れないそんな感傷濃度の高いものに縋ることで、なんとかこれらの作品たちを観終えた後の私たちは理性を保ち、感動を得ることが出来るのかも知れません。

これって一昔前だと美少女ゲームの、特に終末系の作品に込められていたテーマでもあると思うんですよね。中でも私が一番好きな美少女ゲームそして明日の世界より』とかはそういった価値観が全面に出ていて大好きな作品なんですが、ここでもやっぱり最後の最後に語り手と成り得る人物が現れて、その世界で懸命に生きた人たちの証、その片鱗をしっかりとその手に受け取り、預かってくれるんです。

 

でね。自分ってそんな風に語り手が居る作品のことが本当に好きで、少しでもそういう要素があるとなんだか凄く泣きそうになってしまうんです。だって語られる人生って凄く素敵じゃないですか?それだけその人が誰かに愛されていたってことでもあるし、あるいは語りたくなるほどの感動や感傷性がそこには間違いなく在ったってことですよね。もちろん時と場合によってはネガティブな語られ方をすることもあるわけですけど、でも語りたくなるほどの感情の起伏を相手に与えたって意味では同じで、口を閉ざさせるのではなく開かせる力っていうのはやっぱり強いと思うし、なんだかそこに言い知れぬ生命力を感じてしまうんです*2

 

それこそ、このブログで私が私の思うままに色々なことを書き綴ってきたのもそういった原動力がほとんどなんです。アニメを観て、体験させて貰えて、各々の挿話、物語、人生が終わりを迎える度にどうしたって語り残しておきたいと思わされてしまうものがそこには在って。冒頭で書いたようにこの記事もまさにその一つです。だって語らないと残らないじゃないですか、"私の感動" は。それこそ月日が経ち、年々と膨大に増えていくアニメ作品のなかにおいてはきっと語られなくなっていく物語たちもいつか出てくる。それはなんだか凄く嫌なんですよね。享受した私の感動も、物語があった事実さえも消えていく。もちろんデータとしては今の時代サブスクで永遠に残り続けるんでしょうけど、ここで言いたいのはそういうことじゃなくて。アニメブログなんて流行らない、ほとんどの人が読みもしないものを細々とでも "止めない" 理由はそういったところにもあったりします。ここで自分の感情や物語の痕跡を書き続けていたら、いつか誰かが「そういう物語もあったんだ」って気づいてくれるかも知れない。驕りに近いですけどね。でもそういう気持ちはやっぱりありますよ。だって私が好きだった作品は、そこから得ることが出来る想いは、ずっと誰かに語られ続けていて欲しいですから。

と、だいぶ言いたいことが逸れてしまったので話を戻しますが、ようはそういう語り手的な立ち位置が許される物語とか構造って素敵だし、良いなってことでもあるんです。それこそ語り手的な意味で言えば今作においてはリパードクに次ぐ、二人目の語り手が自然と担われていく流れなんかは本当に美しいなと思わされました。デイビットの狂悪さや勇猛さ、その背景をリパードクが語り継ぐのだとしたら、ルーシーはきっと多くの人々が知らぬままである彼の二面性についてを自身の中で反芻し続け、語り継いでいくのだろうと思えてしまうこととか*3。それもまた彼女が生き残った意味でもあるのかも知れないなとか、言ってしまえばむしろ呪いにさえそれは近いのかも知れませんけど、でもそれこそが希望でもあるよねと思えることにもまた本作の肝要さはあるのだと思います。

 

いつの日か彼の手を引き歩んだ月面も、いつからかその背中を追い、また彼に背中を押され辿り着くべき到達点となっていく。それこそその過程の中で育まれ芽生えた感情も、感動も、感傷も全部、きっと彼女が携えて進むのだろうという予感がこの作品最大の "語り継ぎ" であったのだろうとは思いますよね。発展した近未来の世界であっても人類に残るのは人情であり、恋心。そんな諦観と希望を残したテーマ性を『私の月、私の恋』というサブタイトルに最終回で示す手つきが本当に素敵だったなと思います。

*4

最後にこの物語における数多居る語り手の一旦を担えることに喜びを感じつつ、一番好きだったシーンを挙げたいと思います。それが2話のこのシーン。浮遊感を推し出しつつ、それだけに囚われない魅力を引き出した作画的な技術に驚嘆させられたカットですが、彼女たちにとってこの瞬間、この時間がどれほどまでに大切で掛け替えのないものだったのかを現す意味でも、本シーンは余りにも印象的で素敵だったなと思います。

 

低重力と、スローモーションの狭間に在る様な表現方法。環境と心情のリンク。そして最終話を観終えた今だからこそその意味が今一度突き刺さることに、なんだか不意に泣き出してしまいそうになります。本作においてはルーシーにとって一番心が輝きに満ちていたであろう瞬間。例えばそれは藤原千代子*5が熱を込め演じていた瞬間と重なるが如く、だからこそこの物語の語り手の一人として、いかにこの場面が本作にとって大切なシーンに成り得ていたのかということをここに記し、これからも語り継いでいきたいなと今はただ強く思っています。

*1:山田尚子監督のアニメ版

*2:ケースバイケースではありますが、ここで言いたい語られる人生/物語のニュアンスが伝わってると良いな、と思います

*3:外的にではなかったとしても

*4:サムネ参考画像:

*5:千年女優』の主人公