日々これ好日

日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

アップデート

インドネシアから来たお客様だった。

自分がその国に行ったのはもう三十五年は前だった。そこに当時新しく取引を始めた会社があり、自社製品の教育に行ったのだった。それは技術者がトレーナーであり営業の自分は通訳担当。初めての海外だった。南シナ海の上を香港発のガルーダ・インドネシアが飛んでいく。機内からみた海は静かだったが夕暮れが近く時折雷が光っていた。シルクの生地のように重く輝く海を見ながら何故だろう自分は涙が出た。かつてここで日本と米国や英国・豪国の飛行機が空中戦をして多くの命が散って行った。飛行機と戦記物が好きだった自分にとって太平洋とはそんな感傷を感じさせた。

出張前に取引先から予め連絡があった。税関につかまったらパスポートの中に10ドル紙幣を挟んで渡すようにと。そんな国なのか?とドキドキした。民族衣装を着たエキゾチックな顔立ちのキャビンアテンダントが扉を開けた。ジャカルタスカルノ・ハッタ空港だった。肝心のパスポートのドル札を挟んだかは覚えていないが難なく通過したのだった。すると驚いた。空港ビルのガラス扉に人々が鈴なりで、外に出ると自分達の手にしていたスーツケースに殺到する。それをバスやタクシー迄運んで金銭を得るのだった。

ホテルは市内から少し離れていたのだろうか。如何にも赤道に近い街らしく、エアコンは動いていたが部屋は湿って暑かった。そんな中で戸外のレストランでナシ・ゴレンを前にしてビンタンビールを飲んでいると、南国に来たなと思うのだった。

翌朝客先へ行った。街中には白い煙をもうもう出す小型三輪車がちょこまか走り回っていた。どうみてもオートバイに天蓋を乗せたものの様だった。もっともインドネシアでなくともこの手の三輪車はバンコクでも見かけた。バジャーとかトゥクトゥクと呼ばれていた。ジャカルタのそれは黄色い車体。それはタクシーだった。市内を流れる川は茶色い水だったがそこで子供たちが遊んでいる。この国は日本の昭和四十年だな、と思うのだった。自分のジャカルタの思い出は、これに加えてカエルの串焼きにカレー粉をかけたもの、裏通りに在ったほの暗い売春宿通り。切れそうな蛍光灯、ホテルの壁を這っていたヤモリ。そんなものだった。

滅多に着ることのないだろうダウンを着て職場に来たお客様は日本語が上手だったが、少し込み入った話になると眉をひそめた。英語のほうが通じた。折角インドネシアから来たのだから彼にどんな話題をすればよいのだろう。今のような話をするのが相応しいとも思えない。二十代と見える彼にとってもそれは知らないし原風景でもないだろう。今のジャカルタには鉄道が走っている。それは日本のJRや東京メトロなどの中古車両で、日本語の室内広告がまだぶら下がっているとか。これが話題として良いのかも分からない。ただ、ビンタンビールにナシ・ゴレン、ミ・ゴレン、ミ・バソ、そして決して蛙ではない各種のサテ。移動屋台で買い求め戸外で頂く、そんなローカルフードがとても美味しかったことを、そして取引先の会社にいた女性がとても美しく親切で、拙い自分の英語を聞き直して現地人に説明してくれていた事、そんなことを話した。宗教の話はタブーだろう。

残念ながらそれ以上の彼の国に対しての話題が見つからなかった。ジャカルタに行く事はもうないだろうが、こんな風に思った。「記憶のアップデートをしたい」と。世界に対する好奇心と興味を持っていれば可能だろう。手を振って去っていく若者を見て思った。話題不足で悪かった。ホスピタリティは持っているから悪く思わないでほしいと。外国の事ばかりでもなく、記憶ばかりでもなく知識のアップデートは必要だ。人様と接する以上どんな話題にも対応できると嬉しいし、それで日本に対する好感度が上がってくれたらなお嬉しいから。そして知識が更新されればさらに疑問が増える。好奇心アンテナも上がり、どんな分野でも次の一歩が出るだろうから。

場所はわかっていたがこうして地図を見るならば思ったよりも東側だった。しかも完全に南半球だった。ジャカルタ以外にシンガポール、マニラ、ペナン、バンコク、幾つかの曽遊の地があるが、今はどうなっているのだろう。記憶のそして知識のアップデートをしたいと思った。

匂う人相書き

テレビの時代劇。父親が好きなのでつられて見た。水戸黄門はあまりにも明快で少しひねったものが自分は好きだった。父の贔屓は東京12チャンネル・現テレ東の「大江戸捜査網」だった。公儀隠密の手慣れな四人組。浪人や町人を装っているが江戸を揺るがす陰謀に正体を伏せたまま立ち向かう。見栄を切る際に我は隠密同心だと名乗る。ここで鳴る効果音に痺れていた。これまた勧善懲悪の極みだが配役と隠密の性格付けもよかった。

そんな時代劇のワンシーンでよく出てくるのが「人相書き」だろう。泥棒や人斬りなど「下手人」の似顔絵だ。時代劇ばかりではなく都内の駅や交番などでやはりそんな人相書きを見るのだった。もちろん似顔絵ではなく本人の写真だ。瞼を閉じれば浮かび上がる写真もあるだろう。自分の場合はとある爆弾犯、そして日本赤軍のメンバーあたりのポスターを思い出す。なぜ指名手配写真の人物の人相が印象深く残るのだろう?多分目にする機会が多いからだろうか。それに、いかにも写真から漂う犯罪臭がそれに輪をかけるのだろうか。

ホームセンターで買い物をしていた。高原の地に引っ越してきてから三カ月程度は三日に一度はホームセンターに通っていた。家具、庭道具、工具、薪棚を作るための木材、いくらでも買うものがあった。ホームセンターは犬を乗せたカートのまま店内に入れる店が多い。そこもまたそんな店だった。買うものの性格上、DIYカウンターにあるレジに並ぶことが多い。ツーバイフォー材や電動工具などをのせた専用カートで並んだ。そのカートには犬が載っている。どうも目立ったのだろうか、いつの間にかそのレジの女性と話をするようになってしまった。

「あら可愛い。シーズーちゃんね。うちも二匹飼っていたのです。初代も二代目ももう他界してしまいました」

我が家の犬は彼女の記憶のトリガーを引いてしまったのだろう。いつも彼の頭を撫でて黄色い声を出し、あまり人が並ばない事を言い事にしてか、いかに自分が犬好きで、今でもどれほど飼いたいか、という気持ちを語ってくれた。最初はご自身のお子様が欲しがり、飼い始めたら虜になったという。これからもう一匹は自分の年齢を考えると躊躇う、と言われるのだった。とてもそんな年齢には思えないが。ご本人がそう思うのだから仕方がない。その後何度も彼女にレジを打ってもらった。「お子様にいざとなったら託せばよいではないですか!」背中を押そうと思ったのだった。しかし何故か気が進まないようだった。

買い物ラッシュも終わり、久しぶりにDIYコーナーに木ネジを買いに出かけた。するとレジはあの女性だった。「あら、今日はワンちゃんは?」と聞かれるのだった。外気は氷点下なのだから車の中で待っていてもらった。つまり彼女は犬も家内もいなくても自分を覚えているという事だった。自分でさえ相手の顔をはっきりとは覚えていないのに、そんなに自分は憶えやすい顔なのだろうか。外見で言うなら背は低い。腹はデカい。禿げている。どこにでもいそうな不摂生な初老の男だ。顔には不釣り合いに大きな鼻。細い目。凡庸な顔立ちだ。醜男選手権では入賞するだろう。それでも確かに頻繁にレジに並んだのだからまるで指名手配写真のように相手の記憶に嫌でも残ったのかもしれない。

車に乗りながら考えた。あ、もしかして・・。臭いかもしれない。我が家の犬は夜になると布団の中に入ってくる。もちろん抱いて寝ている。もちろん暇があれば膝に乗せる。そんな自分がいつしか「犬クサイ」体になっているとしても頷ける。きっとそれは犬好きならば誰もが感じる匂いではないか。ピピッと来る奴だ。犯罪者の人相書き・顔写真は如何にもそれらしいという凶悪なにおいを感じていたが、まさか自分も家内も犬の匂いが体臭になっているとしたら・・なんとも嬉しい話だ。

さて今夜も布団に入ってくるだろう。ますます「犬臭く」なる。そしてまたホームセンターに行くだろう。すると、もしかしたら、彼女はとうとう三匹目を飼い始めるかもしれない。それは、嬉しい。

確かにこんなカートで行けば覚えられるだろう。しかしワンコが居なければ?心配ご無用。犬臭いのだから。

甲斐からの山・雪だより 八島湿原

車の中は自分にとって大切なオーディオルームだ。クラシックからソウル、ロック、フュージョン、ポップス、自分の好きな音楽はSDカードに入るだけフォルダ別に入れて再生する。たいしてよいカーステレオではないので音はチープだが、馴染の曲が限りなく流れるのでこれほど素敵な空間はない。時として片手運転になってしまい空いた手は左足の膝・スネアドラムを叩くし、曲が変われば手を変えて右手で指揮棒をもってしまう。エアドラム、エア指揮なのだから全く危険だ。

しばらく猛威を振るっていた低気圧も去ってしまったようだ。ここ数日なぜか背中を押されるような気がしている。「ああ、わかったよ。これを聞けばよいのだね。」そこで通勤の車でユーミンのフォルダを再生した。荒井由実松任谷由実の曲もそこにはアルバムごとに入っている。

「♪赤いダウンに腕を通したら、それは素敵な季節の始まり…」

「雪だより」という曲だった。昨年ゲレンデで知り合った人から手紙が届く。失恋した私は寂しかった。そこに不意にそんな手紙が木枯らしに乗って家に届いた。それは山の雪便りだった。彼女はスキー板を取り出し、エッジの傷に息をかけて磨く。

スキーの持つ魅力と失恋した女性が冬景色にかける想いを描いた素敵な風景の様な歌だった。目が覚めたら青空が広がっていた。風も無風に近かった。手紙の雪だよりは自分には届いていないが明るい空と少しだけ棘を落とした空気がそれに思えた。それでは山にスキーに行こう。まずは足慣らしで。そう革靴と軽いテレマーク板を取り出した。目が覚めてからパッキングして一時間で家を出る。そしてさらに一時間で海抜1650メートルの高層湿原に着いた。

そこは霧ケ峰だった。夏になるとニッコウキスゲが咲き乱れる高原だった。霧ケ峰の最高峰は車山・19244メートルだがそこにはスキー場のリフトが上がってくる。スキー場がなぜ音楽を流しているのかは分からないがそんな音も聞こえるだろう。むしろその北西に広がる高層湿原を歩こうと思った。静かで空気が動く音すら聞こえそうだ。もう二十年も昔に山仲間とあたり一帯をスキーで歩き、登り、滑った。その頃は自然保護の概念も今ほどではなかったのか、帰路は湿原の中をスキーで歩いた記憶がある。今は策があり周りを木道が通っている。

この湿原をスキーで一周しようと思った。鷲ヶ峰の登山口まで除雪があったがあとはまだ雪の下だ。深田久弥の「日本百名山」の霧ケ峰の項にこんな記載があったと思う。山には登る山と遊ぶ山があると。前者は息を切らして登り後者は鼻歌交じりで歩ける、と。霧ケ峰はまさにそんな後者の山だった。

一周しても二時間だろう。昼前から歩くのには丁度良かった。木道は時に踏み抜きがあったがスキーは快く滑っていく。踵の上がるテレマークスキーに軽くて取り回しの良い革靴。クロスカントリースキー板を少しだけ太くしてエッジを付けた板だった。今回は雪上ハイキングなのだからスキーの滑り止めであるシールも持ってきていない。板の裏面にはウロコ加工がしてあるのでたいていの斜面は労せずに登れる。雪原に足跡が真っすぐに迷うことなく伸びている。狐だろう。何十年振りかの記憶はもう無かったが当時はなかったであろう休憩舎があり、また雪原の向こうには「営業中」の看板が立っていた。もう少し先にはヒュッテがあるようだ。ケーキとコーヒーセットの写真が看板に掛かっていた。立ち寄ろうかと思ったが少し時間が気になった。思い付きとはいえもう一、二時間早く行動を開始するべきだった。

二時間のスノーハイキングだった。赤いダウンは持っていないが三十年前のウィンターシェルに腕を通してきた。春めいてはきたがもう数度、雪が激しく振るだろう。雪面が大人しくなりザラメ雪の季節になると、再び聞く事だろう「雪だより」を。…そしてエアドラムをしながら山に向かう。

春めいた日に山から便りがやってきた。それは「雪だより」だった。僕もエッジを磨きワックスを塗った。

高原の高層湿原をぐるりとクロカンスキーで歩いた。天気も良く濃密な日だった。

ハイブリッド

時々悩む。アナログとデジタルのどちらが良いかと。そして自分はセコいのだろうかと。

久しぶりに泊まりがけで横浜に行く機会があった。それはバンドの練習で、どうせその後は果てしなく皆で飲むだろう。初日の昼には次女夫妻とランチを取った。三人それぞれ好きな定食を、それも同じ金額のセットを選び具を分け合った。そしてバンドへ。スタジオで三時間、みっちり全体像を確認して細部を詰めて楽しんだ。まとまりの悪かった曲もバンドサウンドにまとまってくる。それが誰しも楽しいのだから席は盛り上がり酒と料理がたくさん出てくる。想定通りに果てしない。翌日は長女と初孫に会った。ランチはこれまた好きなメニューを選びお互いの皿を突つきながら食べた。

文系人間の自分だがお勘定はスクエアに済ませたいと思うのだ。多く飲んだ人は多く払うべきだと。しかしいちいちそんなに精緻に計算など出来ない。丸く収めたい。心地多めとかでも良い。結局は合計金額を人数で割っておしまいだ。映画「男はつらいよ」を涙なくして見られないようなウェットでエモーショナルな自分なのだが、あるところは合理的なデジタルさがある。

アメリカのバーだったか。ここはCODだからね、と連れ立った現地の人は言うのだった。シーオーディ?それはキャッシュオンデリバリー。カウンターでお金を払うとビールがバーボンがチップスがでてくるというわけだ。これほど明朗な会計はない。この明瞭な会計システムは日本では立ち飲みの一杯飲み屋では見かける。会計は良いが今度は皿に盛られたものを皆で楽しむという時間の共有感は失われる。「取り箸は?逆さまにする?」「いいよいいよ、直箸で!」こうして宅を囲んで仲間意識が醸成されるのに、そんな機会を投げ出してしまうことになる。

娘たちとの食事も実は悩ましい。自分は彼らの親なのだ。親ならおごるべきだろう。いや彼らは社会人なのだからそうしたら却って失礼ではないか。娘たちがそれぞれ結婚して初めてともに食事をした時、悩んだ。しかし自分が払った。彼らもそれに従った。次からどうなるのか?払うのは構わぬが社会人としてそれは嫌だろう?いつまでも親にご馳走になるのも苦しかろう、もしそうなら少し情けない。

心配は無用だった。きちんと次からは自分たちの分は自分で出してきた。少し胸をなで下ろした。同時に自責の念が浮かぶ。情けない、そんなことで悩むとは、と。

僕は学生時代の友人を思い出していた。彼は地方にUターン就職をした。本州の西端の県に住んでいる彼に会いに行く。奴の馴染みの店に行く。奴はカウンター向こうの大将と楽しそうに話す。人懐こい男なのだ。店を出るか。財布を出そうとすると大きな手を振ってしわくちゃに笑いこう言うのだ。「美味かったじゃろ。よぉ来てくれたな。払わんでええよ。今日はワシが面倒見るっちゃ」。では喜んでご馳走になろう。ご馳走さんだな、と。

これは全く自分にとって当たり前ではないのだ。スクエアに払うとはそこには割り算という数式しか無い。バイアスをかけるという余地も無い。しかし数式に無縁な奴には甘えてしまう。実は彼に甘える事が好きなのだ。これをどう判ずるべきか自分には答えがない。

山仲間とよく車に乗って山へ行った。ガソリン代に高速道路代。数式の世界に住んでいれば精算は楽なのだ。しかしある仲間はこう出てくる。必ず切り上げる。それも百円の単位ではなく千円の単位でくる。「車も出してもらったし、ずっと運転してくれたからね」と。この台詞とその背景にある奴と同じようなアナログ的な思考には返す言葉もない。数式はいつも鉄壁な解をだすがそれを適用しても割り切れないという訳だ。申し訳ないと思うがそれを否定するのも更に申し訳ない。同時にその気づかいが少し嬉しい。結局甘える。

デジタルで行くのがアナログなのか。相手を見るべきか。少なくとも自分の子供たちは、彼らの判断に任せるべきだろう。親子とはとてもウエットな関係なのだから、彼らの想いを優先すべきだろう。

地下街のレストランだった。私これだけ払うよ。そう言って娘はテーブルの上にお金を置いた。「…これは少し多いよ」

すると彼女はこう言うのだ。「今はあなたよりも私の稼ぎのほうが多いよ。だからいいの!」と。ハハァと唸った。そんなロジックがあったのか!とてもアナログな判断だが多い少ないという意味ではデジタルでもある。二つの価値観を自在に使っている。つまりハイブリッドだった。

それでは甘えよう。そして自分もハイブリッドで行こう。老いては子に従えか。さすが我が子、なぜか嬉しかった。

値段差のある皿を二人で等分する。目玉焼きは半分に、ウィンナーも本数を数えて。そうなると折角のナポリタンも不味くなるだろう。ハーフ&ハーフとノンアルの値差はどう補正する?デジタルに傾きすぎるとつまらない。がアナログすぎても判断基準が悩ましい。ハイブリッドが良いだろう。

え、それって誰?

友人の家に時々立ち寄る。自分より一回り以上年上の方だった。いつも歓迎して下さる。友人は多趣味で器用なのだから自分は何時もそこで何らかの刺激を得る。美味しい珈琲が、そして奥様お手製のケーキが出てくる。時にそれは友人の焼いたベーグルでありパンでもある。ふらりと立ち寄ってもご馳走になるのだから菓子なりパンなりを常時焼かれているのだろうかとも思う。笑顔が印象的な奥様とお話しすると家内は自分と同じく何かのヒントを貰うようだった。

登山、アウトドア、カメラ、手作りオーディオ、鉄道模型とプラモデル、音楽・楽器演奏、自転車、車はジムニーアマチュア無線ガーデニング、料理、彼の趣味の範囲は不思議なほどに自分とほぼ被る。最大の違いは彼のそれらの個々に対する造詣が自分よりはるかに深く、また何にせよ手先が器用ということだった。ご夫妻は卓球を楽しまれていると言われる。「温泉卓球ではないよ」と言われるのだから凄いのだろう。

この周辺の方々は皆さんお元気ですね。そんな話をした。奥様は我が意を得たりだったのだろうか、笑いながらこう言われるのだった。

「テレビとかで高齢者って言われたりするけど「え、それって誰の事?」って思うわね」と。

その通りだろう。友人夫妻は自分よりもずっと若く見える。肉体年齢と好奇心アンテナは自分達よりもずっと若く高いのだろう。また家のご近所さんも若々しい。グルコサミンを飲んでいたとしてもだ。

これだと思う。好奇心と実行力。そして自分は高齢者ではないという前向きな気持。ありとあらゆるものに興味を感じまず実践されている。それが達成できたという満足感は間違えなくドーパミンを脳に運んでくる。もしかしたらエンドルフィンもセレトニンも。そしてオキシトシンも。すると次の未知の分野への挑戦意欲が浮かんでくる。体は鍛えている。前を向いた気持ちがそれを支える。だからなんでも出来てしまうのだ。

再開しようとアマチュア無線のアンテナを拙宅に建てているが、アマチュア無線のアンテナもよいが好奇心のアンテナがまずは重要だ、と思う。「高齢者?え、それって誰?」と言えたら自分も嬉しい。自分は時に反省する。ブログで自らの事を、老いぼれとか初老のオヤジと書く。正しいようでそれは正しくない。ある意味それは自嘲であり、そうあってほしくないという気持ちに皮肉を加えて表現しているのだから。体はそれなりに動かそう。皮肉は性格だからまぁ仕方ない。気持ちをしっかり持ちあとは好奇心か。高利得のアンテナが欲しい所だ。

燃え盛る好奇心。動く体で実践する。表現は皮肉まみれだが仕方ない。これからもかくありたい。

ゆめ

とあるコンビニの前の道路を通るといつも目についていた。気になっていたというべきだろう。それは軽自動車のバンだった。

車に関しては昔からスズキ・ジムニー一択だった。三台乗り継いできた。いつからブームが起きたのか分からないが今の車は納期一年だった。数週間前に5ドアが発表された。メーカーの想定受注数を大幅に超えてしまいわずか数日で受注停止になったというからその人気ぶりが窺える。軽自動車というユニットが好きなので普通車のジムニーには個人的には興味が無いが、アウトドア好きなファミリー世代には文句なく刺さる事だろう。

山梨県にせよ山間部ではジムニーは生活必需車だ。雪国のパトカーはジムニーだ。狭い林道、農道。悪路。積雪路。実際によく見かける。どこでもござれだ。そんな地での生活。冬の氷点下を想えば悪路でなくとも四駆はマストだろう。

子供のころの夢はリアカーで生活をすることだった。荷台に段ボールで作った家を乗せてその中で寝泊まりをするという事だった。母親はひどくそれに落胆したが、自分には楽しく見えて仕方なかった。気ままに動ける。好きなところに行けるではないかと。

「小さな動く家」に関しては自分は何処かで「童心を失っていない」のだった。小さな空間で過ごし、それが移動する・・。小さな、ということが大切だった。いつしか夢が出来ていた。軽自動車のワンボックスで生活をしながら気ままに予定を決めずに日本中を走りたいと。眠くなったら車内に作ったベッドで眠る。日帰り温泉などそこら中にある。ポリタンに湧き水を補給していく。登山用のバーナーひとつで湯も沸くしご飯もたける。もっともコンビニがそこら中にあるが。

栃木県北部の山の登山口だった。駐車場に軽のバンが止まっていた。外に居た持ち主にお願いして中を見せてもらった。それは動く家だった。工夫が随所にあり自分の心臓は妖しく動くのだった。山仲間もまた軽ワンボックスのリアシートを取っ払い動く家に改造している。それも見せてもらった。

いつかそんな旅をしたいものだ。家内に言ったら猛烈に反発を受けた。柔らかい布団で美味しい料理を食べたいという。極めて当たり前な思いだろう。家が建つ前の自宅の敷地で何度もテントで寝ていたではないか。登山ででもテント生活を楽しんでいたではないか。それがナイロン生地ではなく鉄になりしかも動くのだから良いではないか。がどうもそうはいかないようだった。

コンビニに行った。車をそこに停めて見に行った。そこはくたびれた中古車を展示するスペースだった。気になっていた相手は20万円だった。やはり四駆だった。十二万キロ走行か。構わない。日本の車はメンテをすれば何十万キロも走るのだ。ワゴンではなくバンか。四ナンバー。それも望ましい。リアシートは畳みっぱなしか外すのだから。貨物車になるので税金も安い。マニュアルシフトか。懐かしい。直ぐに思い出すだろう。ターボも不要。今の軽はNAでも高速道路で行けるし慌てる旅でもないのだから。

むくむくと湧きあがる気持ち。リアスペースはどうしよう?板敷にしてカーペット材を張るか。ベッドは銀マット?シュラフは何を入れようか。ヘッドレストに引っかける机を作ろう。そこに載せるパソコンはあれを持っていくか。電源はどうする?そんな事を考えていると時の立つのを忘れるのだった。

結局それは夢のままとした。一人旅ではないのだから。それに我が家の車でもシートを倒して板を乗せればフルフラットになるのだ。一人分の専用ベッドまでDIYしてるのだ。それで様々な登山口まで夜を徹して走っていたのだから。二人と一匹の気ままな旅はそんな車でも出来ると興奮した。だから密かに準備を進める。ある日、急に連れ出してしまおう。時に旅館やホテルを挟み、漁港の市場に立ち寄る。そしてたまにはどこかのフレンチやイタリアンに立ち寄って。すると抵抗感も無くなるだろう。その後だ。

「もう少し快適な車にしよう。二十万円で手に入るから。」

そんな事を考えると何故かほくそ笑むのだった。そしてまたむくむくと雲が湧いてくる。やはりオートマの方が楽だよな。色は白ではなくシルバーが良いなと。

まったく楽しい。小さな鉄の家が気ままに知らないところへ連れて行ってくれる。時間も何も関係ない。風の吹くままにハンドルを回しアクセルを踏む。夢はあるにこしたことはない。

街で見かけた軽バン。思わず一歩踏み出しそうだ。山の駐車場で見かけたあの「動く家」にはもってこいだ。ただし合意されるかは別の話だ。夢はどんどん膨らんでいく。



素敵な贈り物

自分の好きな街は何処だろうと考える。高校生の頃は紙屋町だった。それは広島市の中心地だった。大型書店、家電量販店、少し離れて楽器屋があったのだから。大学生の頃は住んでいた神奈川県中央部の町。そこには片想いの素敵な女性が居たから。そして楽器屋と登山道具・古本屋の街、御茶ノ水と神保町。さらに渋谷と下北沢。そこには通った大学があり友人達の家があった。レコード屋とカルチャーがあった。どの路地も我が街だと思っていた。今そんな街は特にない。長く住んだ横浜には新鮮味も無いが中華街からセンスの良い元町そして港を望む山手・根岸辺り一帯の風景はやはり素敵に思う。転居して今住んでいる高原には人は少ないが、澄んだ空気が豊かな森を包み美味しい水がある。街というよりその環境に惹かれている。

さように自分の好きな生活環境は時を経れば変わるものだろう。が時を経ても変わらぬ憧れの街がある。ロンドンとウィーンだった。食べ物という観点、観光という観点では別の街になるだろうが英国とオーストリアの首都であるこの二つの都市には音楽の香りがする。それが自分を魅了する。だから年月を問わずに好きであり続けているのだろう。

ロンドンと言えばマーキー・クラブ。いつか行きたい夢の場所。オックスフォード通りに在ったライブハウス。ここからヤードバーズが、ローリングストーンズが、ザ・フーが、レッド・ツェッペリンスモール・フェイセズが、数えられぬバンドが世に羽ばたいた。スウィインギング・ロンドン。自分はティーンエイジャーから今に至るまでロンドンの街を流れていた音楽とその元となったブラックミュージックの支配下にある。二階建てバスが行き交い小さな地下鉄が走る町並みは、飛び跳ねる英語の飛び交うちょっと気取った都会だった。

初めてウィーンに行ったのは社会人になってからだ。何故だろう出張の一環でウィーンに立ち寄った。シュテファンプラッツから石畳を歩き馬車と行き違いムジークフェラインザールの建物を見て震えた。カール・ベームはここで一体何度演奏をして幾枚のレコードを録音したのだろう。そこは中世であり街が音楽だった。まさに音楽の聖地だった。そして欧州に住んでいる間に何度もこの街へ行った。とうとう憧れのホールでウィーンのオーケストラの演奏を聞いた。夢み心地だった。

自分は今でもロンドンが広めてくれた音楽を聞いて体を痙攣させドーパミンを出している。またウィーンの生んだ音楽は何故か自分の空想のタクトを振らせそれはセレトニンを脳に与えてくれる。音楽はいつも自分に生きるエネルギーをくれる。

山梨県庁近くのコンサートホールでこんなチラシを眼にした。「音楽の都からの贈り物」と書かれていた。ウィーン・フィルウィーン国立歌劇場のメンバーが来日し室内楽を演奏するというのだから直ぐにチケットを買った。第一部では彼らがハイドンモーツァルト弦楽四重奏やフルート・クラリネットを交えた五重奏を演奏する。そして二部には当地のジュニア・オーケストラと共にウィンナワルツなどが演目に上がっていた。

オーケストラ物か鍵盤楽器の独奏演奏会ばかりを聞いていた。正直室内楽は何故かあまり聞いていなかった。が演目のハイドン弦楽四重奏曲「皇帝」は知っていた。自分達が住んでいた国の国歌だったからだ。日本人学校の校歌とこの国の国歌が娘たちの卒業式で流れていた。日本以外にはアメリカとイギリス、そしてフランスとドイツの国歌しか知らないがこのドイツの国歌が自分には沁みる。とても堂々として素敵に思う。胸を張れる国歌には憧れる。生で聞いた実際の曲には夢心地だった。

室内楽は少人数で演奏されるが四本の弦楽器でこれほど豊かな音楽が生み出されることに驚いた。四人はアイコンタクトをしながら演奏していく。世界最高のオーケストラの奏者なのだ。見事なアンサンブルだった。クラリネットとフルートを交えてますます盛り上がった。メンバーの何人かはテレビを通じて知った顔だった。ウィーンフィルの映像には毎年元旦に年一回は接するのだから。今年も見たのだろう。

第二部は地元のジュニアオーケストラ。驚いたことにウィーンからの客人はそのジュニアの各パートに入りともに演奏をした。バイオリン、ヴィオラ、チェロ、クラリネット、そしてフルート。制服を着た中学生、少し背伸びしたドレスを着た高校生。彼らに交じり演奏をしていた。中高生は皆彼らを見ながら自分達の音楽を作っていた。又ウィーンからのメンバーも見えぬ力で彼らを牽引しているかのようだった。両者の間には「ムジツィーレンの歓び」が見て取れた。一緒に音楽を作り上げていく、そんな言葉通りだった。ヨハンシュトラウス二世の二つのポルカ「雷鳴と稲妻」・「観光列車」はウィーンフィルニューイヤーコンサートでお馴染だ。大太鼓とティンパニはホールを揺るがし観光列車は楽しそうに走る。アンコールは運動会の徒競走で馴染みのポルカ「トリッチ・トラッチ」。最後はエルガーの「威風堂々」だった。これは自分の小学校の卒業式で流れていた曲で音楽のすばらしさを知ったきっかけだった。心弾むポルカと勇壮な行進曲ですっかり酔いしれてしまった。

カーテンコールとなった。何よりも素晴らしい事はウィーンからの客人が自ら手を伸ばしジュニアオーケストラのメンバーと握手をして肩をポンポンと叩いていることだった。世界トップの演奏を横に聞きながら導かれるように弾き、最後に労をねぎらわれる。そんな熱いやり取りに何故か自分は涙がポロポロと出るのだった。最高の演奏会だ、これまで見て来たどの演奏会よりも素敵だ。全く今日は自分にそして彼らにとって、言葉にならぬ「素敵な贈り物」だったことだろう。

ムジツィーレンに満ち溢れた夕べ。観客にもそして若き演奏者にとってもまったく「最高の贈り物」だった。

ウィーンアンサンブルVIMCA 2025年2月9日YCC県民文化ホール