インドネシアから来たお客様だった。
自分がその国に行ったのはもう三十五年は前だった。そこに当時新しく取引を始めた会社があり、自社製品の教育に行ったのだった。それは技術者がトレーナーであり営業の自分は通訳担当。初めての海外だった。南シナ海の上を香港発のガルーダ・インドネシアが飛んでいく。機内からみた海は静かだったが夕暮れが近く時折雷が光っていた。シルクの生地のように重く輝く海を見ながら何故だろう自分は涙が出た。かつてここで日本と米国や英国・豪国の飛行機が空中戦をして多くの命が散って行った。飛行機と戦記物が好きだった自分にとって太平洋とはそんな感傷を感じさせた。
出張前に取引先から予め連絡があった。税関につかまったらパスポートの中に10ドル紙幣を挟んで渡すようにと。そんな国なのか?とドキドキした。民族衣装を着たエキゾチックな顔立ちのキャビンアテンダントが扉を開けた。ジャカルタはスカルノ・ハッタ空港だった。肝心のパスポートのドル札を挟んだかは覚えていないが難なく通過したのだった。すると驚いた。空港ビルのガラス扉に人々が鈴なりで、外に出ると自分達の手にしていたスーツケースに殺到する。それをバスやタクシー迄運んで金銭を得るのだった。
ホテルは市内から少し離れていたのだろうか。如何にも赤道に近い街らしく、エアコンは動いていたが部屋は湿って暑かった。そんな中で戸外のレストランでナシ・ゴレンを前にしてビンタンビールを飲んでいると、南国に来たなと思うのだった。
翌朝客先へ行った。街中には白い煙をもうもう出す小型三輪車がちょこまか走り回っていた。どうみてもオートバイに天蓋を乗せたものの様だった。もっともインドネシアでなくともこの手の三輪車はバンコクでも見かけた。バジャーとかトゥクトゥクと呼ばれていた。ジャカルタのそれは黄色い車体。それはタクシーだった。市内を流れる川は茶色い水だったがそこで子供たちが遊んでいる。この国は日本の昭和四十年だな、と思うのだった。自分のジャカルタの思い出は、これに加えてカエルの串焼きにカレー粉をかけたもの、裏通りに在ったほの暗い売春宿通り。切れそうな蛍光灯、ホテルの壁を這っていたヤモリ。そんなものだった。
滅多に着ることのないだろうダウンを着て職場に来たお客様は日本語が上手だったが、少し込み入った話になると眉をひそめた。英語のほうが通じた。折角インドネシアから来たのだから彼にどんな話題をすればよいのだろう。今のような話をするのが相応しいとも思えない。二十代と見える彼にとってもそれは知らないし原風景でもないだろう。今のジャカルタには鉄道が走っている。それは日本のJRや東京メトロなどの中古車両で、日本語の室内広告がまだぶら下がっているとか。これが話題として良いのかも分からない。ただ、ビンタンビールにナシ・ゴレン、ミ・ゴレン、ミ・バソ、そして決して蛙ではない各種のサテ。移動屋台で買い求め戸外で頂く、そんなローカルフードがとても美味しかったことを、そして取引先の会社にいた女性がとても美しく親切で、拙い自分の英語を聞き直して現地人に説明してくれていた事、そんなことを話した。宗教の話はタブーだろう。
残念ながらそれ以上の彼の国に対しての話題が見つからなかった。ジャカルタに行く事はもうないだろうが、こんな風に思った。「記憶のアップデートをしたい」と。世界に対する好奇心と興味を持っていれば可能だろう。手を振って去っていく若者を見て思った。話題不足で悪かった。ホスピタリティは持っているから悪く思わないでほしいと。外国の事ばかりでもなく、記憶ばかりでもなく知識のアップデートは必要だ。人様と接する以上どんな話題にも対応できると嬉しいし、それで日本に対する好感度が上がってくれたらなお嬉しいから。そして知識が更新されればさらに疑問が増える。好奇心アンテナも上がり、どんな分野でも次の一歩が出るだろうから。