久しぶりの更新。
迷ったけれど、やっぱり書いておこう。今考えていることを忘れないために。
■取り残された国
およそ1年前、僕はこう書いた。
地球上で様々な国、文化、統治機構の「A/Bテスト」が行われてしまっている
パンデミックという未曾有の事態にどう立ち向かうか。危機をどう乗り越えるのか。沢山の国や地域が、同じタイムラインで、同じ問題に直面した。だからこそ如実に統治機構の差があらわれる。共同体の価値観や、行政組織の運営の効率性をどうアップデートしてきたかどうかが問われる。そして、ここ日本においては、心底残念な形で、その結果が証明されつつある。
ワクチンの接種を進めることが解決策であるのは最初からわかっていた。が、日本という国家は接種開始に乗り遅れ、そこからの歩みも遅々として進んでいない。
上記の記事で引用されている5月10日時点のデータによると、日本で少なくとも1回の接種を受けた人の割合は2.4%にとどまっている。世界196カ国中129位、経済協力開発機構(OECD)加盟37カ国の中では最下位。
一方で、NYでは、5月8日現在でワクチン接種率は約60%(完了は47%)となり、新型コロナウイルスの検査陽性率は1.29%まで減少した。ワクチン接種する人が頭打ちになったことから、観光振興策として「ワクチンツーリズム」が導入されている。
EUでも、承認した国のワクチン接種証明書があれば、6月から域内の入出を自由にできると表明している。
欧米各国は、着実に新型コロナウイルス感染終息後の世界、ポスト・パンデミックの時代に移りつつある。しかし、日本は、確実に周回遅れの道を歩んでいる。
■夏に訪れるであろう惨状について
東京オリンピック・パラリンピックについても、目を覆うような状況が続いている。
基本的に、僕は「TOKYO 2020」というものについては「関わりを持たない」というスタンスを守ってきた。だからこそ言及を避けてきた。たとえば2019年末に受けた以下の取材などでも「オリンピック後のことが大事」と言い続けてきた。
基本的には、その考えは変わっていない。
でも、今率直に感じていることは、書いておくべきだと思う。
現時点では、いよいよ不透明な状況になってきている。変異株による感染拡大が猛威を振るい、緊急事態宣言が延長されるなか、世論調査では7割以上が開催に否定的な声を上げている。開催中止を求めるオンライン署名も数十万筆が集まっている。
僕も基本的には再延期か中止が妥当だと思っているけれど、もはや、問題はそういうところじゃなくなってきている気がする。開催か中止かじゃなくて、もっと大きい何かが問われているように思う。
日本の民族性には「穢れ」の観念が色濃くある。今のこの状況に至っては、たとえ開催が強行されようが、すでに多くの人が無意識のうちに抱いてしまっている「TOKYO 2020」というものに対する穢れのイメージはすぐには拭い去ることはできない気がする。穢れとは「忌まわしく思われる不浄な状態」のこと。そもそも、コロナ禍に至る前から、不浄な状態は各所で露出していた。招致を巡る疑惑や、競技場やロゴを巡る経緯や、いろんなところで不透明な意思決定プロセスがあって、その淀みがオリンピックという利権にまとわりついていた。ひどい性差別発言もあった。
端的に言うと、この状況でたとえオリンピックの開催が強行されたとして、そこでスポーツ選手の活躍を見て、本当に「勇気をもらいました」みたいな気持ちになれますか?ということだと思う。アスリートが悪いわけではまったくない。身体的にも、そして精神的にも、競技団体の組織構造の中で「決まったことを受け入れて頑張るだけ」という制限された状態を強いられている辛い立場だとは思う。でも、ここまで不透明で不誠実な意思決定によって動かされ、奮闘してきた医療従事者にさらに負荷をかけ、人々の感染リスクを増すことが確実な大規模スポーツイベントに参加する選手を果たして心から応援できるんだろうか?ということだと思う。申し訳ないけれど僕にはできない。そういうことに対しての忌避感のようなものも、じわじわと広がっている感じがする。
「コロナ禍だからしょうがない」と言う人もいるだろう。しかし、そういう「しょうがない」事態になったのは、やはりワクチン接種の遅れが原因だ。
7月から8月にかけては、きっと欧米各国ではワクチンパスポートを持った大勢の人たちが久々のバカンスを目一杯楽しんでいるはずだ。イギリスやアメリカでは、すでにいくつかの大規模な野外フェスが予定されている。夏頃にはパンデミックの閉塞感は過ぎ去り、旅行も、パーティーも、ライブやイベントも、スポーツ観戦も、沢山の楽しいことが再開された日常が戻っているはずだろう。日本以外の先進国では。
中止するにしろ、開催を強行するにしろ、おそらく、こういう惨状が夏頃に待っている。この状況を「敗戦」になぞらえる論調も増えていくだろう。しかし、数十年前の敗戦と違うのは、これを機に劣化した組織をゼロから立て直す、ということにはならないだろうということだ。
■負けた先のこと
この先のことを考えよう。オリンピック後のことが大事。
だいぶガタが来てしまった仕組みを、少しでもマシなものにしていくことはできるだろうか。10年後、20年後、人生の大切な機会が奪われてしまっている子供たちや若い世代の人たちが大人になった頃に、少しでも“いい社会”をイメージできるようになっていられるだろうか。
でも、いい社会ってなんだろう。そのことを、ここしばらく、考えていた。
昨年2月に僕はこう書いた。
権威と忖度ではなく、知性と信頼によって、公共性はデザインされるべきだ。
その思いは変わっていない。
そして、その先で、もっと“豊かな”社会になっていたらいいなという願いがある。豊かさというもののイメージを、ちゃんと更新していかないといけないだろうなという感覚がある。
ひょっとしたら、このコロナ禍の先の世情は、予想していたよりも、もっときな臭いものになるかもしれない。すでに香港で、ミャンマーで、弾圧が進んでいる。エルサレムは戦場になっている。国家という組織が持つ暴力性がむき出しになっている。
そしてその非人道性は、どこか他の国の話だけではなく、たとえば『ルポ入管』のような本を読むと、すぐそばにあることもわかる。
そして、突き詰めていくと、それは、たとえばジェンダーの不平等とか、それこそブラック校則だとか、いろんな問題にも通底している構造だとも思う。権威主義的な体制というのは人々に「決まったことを受け入れて頑張るだけ」な状況を強いるもので、逆にそれを「決める側」に説明責任を回避させる構造を持つ。“豊かな”社会って、そういうものじゃないよね、という。
もちろん貧しいと惨めな気持ちにはなる。”豊かさ”から経済的な意味合いを抜きたいわけじゃない。でも、それだけでなく、選択肢が多様で疎外されないこと、少数者の意思がちゃんと尊重されることが、”豊かさ”のこの先のイメージだと思っている。だからこそ、「絆」という言葉で全体性に個人を縛り付ける言葉には警戒する気持ちもある。
いろんな意味で未来は不透明。でも、僕がニヒリズムに陥らないでいられるのは、かつての古い意味合いで“豊か”だった日本を知らない僕より若い世代の聡明さとしなやかさを実感として知ってるから。政治のことも経済のことも専門ではないけど、カルチャーのことについては自信を持ってそう言える。
この先、どうなっていくのだろうか。まだ、結論は出ないまま。