古代東北の民である蝦夷(えみし)の最後はどうなった? | 戦国ヒストリー

古代東北の民である蝦夷(えみし)の最後はどうなった?

蝦夷(えみし)のリーダー・阿弖流為(あてるい)のイメージ
蝦夷(えみし)のリーダー・阿弖流為(あてるい)のイメージ
 蝦夷(えみし)という言葉を聞いたことがある方も多いのではないでしょうか。蝦夷という字は ”えみし” という読み方の他に、”えぞ” と呼ばれることもあります。

 諸説ありますが、蝦夷(えぞ)は、平安時代中期頃より、主に北海道に住む人々のことを指すようになりました。近世では、アイヌの人々が暮らしていた北海道のことを蝦夷地(えぞち)とも言いますね。

 ただ、今回紐解くのは蝦夷(えぞ)ではなくて、蝦夷(えみし)のお話です。同じ漢字なのでややこしいのですが、 蝦夷(えみし)とは、古代東北に住んでいた人々のことを指します。

 彼らはどんな人々で、どのような暮らしをしており、そして最後はどのように迎えたのでしょうか。本記事でみていきましょう。

東北の蝦夷とは

 蝦夷の歴史を辿ると、神話の時代に遡ります。奈良時代の書物『日本書紀』には、「愛瀰詩」という言葉が登場します。

 研究者の間では、これが後に「蝦夷」と表記されたと述べる者もいますが、未だにはっきりとは分かっていません。登場するのが神武天皇(初代天皇とされる日本神話上の伝説上の人物)の時代のため、今も伝説の域を出ないのです。そして、古墳時代後期あたりから東北以北の国家の支配の及ばない地域に住んでいる人々を、「蝦夷」と表記するようになったのです。

 斉明天皇5年(659)、蝦夷の男女2名を連れて、遣唐使が唐の皇帝に謁見したことが文献に記録されています。遣唐使に同行したことからも、この時代に蝦夷は国家となんらかの関係を持っていたことが伺えますね。その際に遣唐使は唐の皇帝に、蝦夷のことを以下のように紹介しています。

「獣を狩り、肉を喰らい、農耕はせず、木の下で暮らしている」

 しかし実際には、東北地方では7世紀の古墳や住居跡が発掘されています。現在では、蝦夷が農耕に勤しみ、ムラを形成していたことが分かっているため、この謁見での紹介はウソだったと言われています。本当は、公民とさほど変わらない生活を営んでいたのではないでしょうか。

 このように、国家に従わない人々は、歴史書の中でも虚偽を交え、後世に語り継がれていくことになったのです。

蝦夷の戦争の歴史

 その後、蝦夷と国家は、支配を受け入れたり、また衝突したりして、不安定な関係を続けていきます。国家は東北の各地に拠点を築き、公民を東北に移民させ、支配を広めていきました。また、降参した蝦夷を別の地方へ強制移住させることもありました。今の時代では、とても想像ができない事態ですよね。

 蝦夷は、国家が東北に拠点をいくつも建てたことに腹を立て、反乱を起こすこともありました。

 そして争いは激化し、特に宝亀5年(774)から弘仁2年(811)までの戦いを「三十八年戦争」と呼んでいます。第1次世界大戦が約4年、第2次世界大戦は約6年ですので、いかにこの「三十八年戦争」が長く悲惨で、多くの犠牲を生んだのか、想像が尽きません。

 この戦争で活躍した蝦夷のリーダーが「阿弖流為(あてるい)」です。

 古代の東北の中では1、2を争うほど有名な人物ではないでしょうか。彼は延暦8年(789)に、初めて『続日本紀』に登場しています。阿弖流為は、兵数の差が歴然としているにも関わらず、地の利を生かした戦術で13年間にわたり、国家との戦いに勝ち続けました。

 ところが、延暦20年(801)征夷大将軍に任命された坂上田村麻呂に負けてしまい、阿弖流為らは京に送られます。『日本紀略』には、田村麻呂が必死に阿弖流為等の命を助けるように懇願する姿が残されています。しかし、公卿たちの意見によって、田村麻呂の意見は無視され、阿弖流為等は斬首されてしまうのです。

 田村麻呂がどのような意図を持ち、阿弖流為の命を助けるように言ったのか、その本心は謎に包まれています。果てしなく続く長い戦争の中で、自らの故郷を守りたいという蝦夷の姿に、心を揺さぶられることがあったのではないでしょうか。

大阪府枚方市の牧野公園にある、通称「首塚」と伝阿弖流為・母禮之塚の碑(出典:wikipedia)
大阪府枚方市の牧野公園にある、通称「首塚」と伝阿弖流為・母禮之塚の碑(出典:wikipedia)

東北に残された蝦夷たち

 さて、その後の蝦夷はどうなったのでしょうか?

 国家の支配下のもと、東北に残された蝦夷には、公民との身分の差をなくそうとする政策がとられていきます。研究者の間では、これを「民夷融和政策」と呼んでいます。

 『続日本紀』には、弘仁3年(812)に蝦夷の統制が難しいため、蝦夷の中から長を一人決め、まとめさせたと記してあります。何事に関してもそうですが、多くの集団を統制するには、トップに立つ人間が必要不可欠ですよね。また、その後弘仁5年(815)には、嵯峨天皇が降伏した蝦夷に対して、公民と変わらない姓名で呼ぶように命じています。

 つまり、蝦夷社会に国家の仕組みが介入したことで、徐々に蝦夷社会の独自の文化やしきたりは、消滅していったと思われます。

 後に東北を支配する奥州藤原氏の初代 藤原清衡(ふじわら の きよひら)は、蝦夷の長である安倍氏と京から来た官人 藤原経清の子どもです。蝦夷と東北は、後世でも強い縁で繋がっているのだと感じますよね。


各地に移配された蝦夷たち

 東北に残る蝦夷がいる一方で、国家の政策の一部として各地に強制移住をさせられる蝦夷もいました。彼らを「移配蝦夷」と呼んでいます。移配先での蝦夷等は、それぞれ全く異なる人生を歩んでいました。中には一部ですが、富裕化し位を授かる者もいたそうです。

 しかし多くの蝦夷は、移配先での差別や貧困に苦しみ、各地で反乱を起こしていたことが分かっています。反乱場所は関東の他、出雲(今の島根県)にも及びました。この時代に東北から関東や九州に強制移住させられた場合、二度と故郷の土を踏むことはなかったでしょう。その後9世紀になると、移配蝦夷は防人として配置されたり、瀬戸内海の海賊を打つために招集されたり、軍事的に利用されることもあったようです。

 また移配先で賤民、奴婢として扱われた蝦夷も多かったと言われています。一部の研究者の中では、この移配蝦夷が後世の下級身分に繋がったという説もあります。

 今も蝦夷の研究は続いていますが、未だに解明されていない事実は多く存在しているのです。

おわりに

 今回は、蝦夷(えみし)についてお話させていただきました。

 歴史の教科書でも、多くは語られず一文程度で済まされてしまう人々です。しかし、彼らの中にも一人一人の人生があったと思うと、歴史はとても奥が深いですよね。

 古代の民族に関しては、圧倒的に資料が少なく、研究が難しい分野とも言えます。その分、歴史的探究心やロマンを駆り立てられるという面白さもあります。歴史を紐解くために残されたヒントは、主に勝者の軌跡です。書物と、考古学的資料を照らし合わせながら、今後も真実を見極めていきたいですね。


【主な参考文献】
  • 鈴木拓也『三十八年戦争と蝦夷政策の転換』吉川弘文館 2016
  • 樋口知志『阿弖流為 夷俘と号すること莫かるべし』ミネルヴァ書房 2013
  • 河北新報オンライン
  • 奥州市埋蔵文化財センター

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  この記事を書いた人
mashiro さん
もともと歴史好きでしたが、高橋克彦さんの「火怨」を読んでから東北史にどハマり。大学では日本史を学び東北史を研究しました。 現在は自宅保育の傍ら、自宅で仕事してます。

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