クリエイターインタビュー前編|小田島 万里(カメラマン・写真家)
本当にやりたい人は、学校に行かなくてもやるんだから!
「この言葉がとても刺激的でした」と振り返る、小田島さん。好きなものへの追求を諦めないロックな小田島さんが、カメラマンを志すまでの経緯と現在の活動についてお話を伺いました。
ー 現在のお仕事について教えてください。
写真家の活動をしながら、フリーランスでカメラマンをしています。撮影する対象は幅広いので「なんでも写真屋さん」ですね(笑)。あとは、岩手と仙台のスタジオに在籍して撮影業務も請け負っています。
現在は雑誌取材の撮影やブライダルをはじめ、スクールフォトやイベント撮影、個人様の記念撮影などさせていただいています。いろんな刺激があって楽しいのですが、各現場で順応に動けるように心がけています。例えば、取材の仕事ではどこを撮影するのがベストで、どんな会話が必要かなど「知識的な面でも引き出しが多くないと難しい仕事だな」と思います。
また新型コロナウイルスの影響で機会は少なくなってしまいましたが、東京や横浜など県外での仕事をいただくこともあります。お呼びがかかれば全国どこでも駆けつけます(笑)。
きっかけや繋がりがないと撮影させていただけないものも多いので、こうした様々な現場に恵まれたのは、ありがたいことだと感じています。私の場合は、人伝に紹介していただくことが圧倒的に多いですね。
ー 素敵ですね。では、あまり営業はされないのですか?
大々的に営業しないことが、私のポリシーでもあります。
私が宣伝下手という理由もあるんですが、一人でできることは限られていて手に負えなくなってしまっては、本末転倒になってしまいます。手広く仕事ができればベストなのでしょうけど、自分一人で丁寧にできる仕事には限界があると思っています。
写真はSNSで公開していて、Facebookをメインに使っています。ただ仕事やプライベートで撮影した写真の投稿に留めていて、営業はしていません。良い写真を載せていると自然とお客様とのご縁に繋がるので、そこを大切にしたいです。
撮影料などのお問い合わせもいただくことはありますが、これも敢えて記載したりはしていません。もちろん目安の価格提示も可能なんですけれど、依頼ごとに値段は変動するし予算もそれぞれ違いますからね。
ー 写真に興味を持つようになったのは、いつ頃からですか?
実は学生時代から絵を描いていて、高校は宮城野区高等学校の美術科に入り日本画を専攻していました。1年生の時に油絵・日本画・彫刻・デザイン・パソコンのコースを一通り学ぶことができて、2年生で専攻を決める時に「日本画が好きだな」と思い、日本画を選んだ感じですね。
美術大学に進むことも考えていたのですが、進路に迷っていたときに「本当にやりたい人は学校に行かなくてもやるんだから」という母の言葉がとても刺激となって、私は独学で勉強することを選びました。当時は、母への対抗心が強かったように思いますが。
そのあとは医療事務の専門学校に通いながら、美術サークルのようなところで木炭デッサンを勉強して、地元の栗原で医療事務の仕事に就きました。
今は本格的に描くことはないのですがイラストを描いたり、美術館や絵画展に足を運んだり、他の写真家の作品を見るのもすごく好きです。
ー 医療事務からカメラマンへ転身されたのですね!
そうですね。でも紆余曲折ありまして(笑)。
医療事務の仕事をしていた頃もデッサンの勉強を続けていたのですが、ある日人物デッサンを描きながら「描かれる側の人はどんな気持ちなんだろう」とモデルの仕事に興味を持ち、何年かデッサンモデルのアルバイトをしていました。
そこでカメラマンの方と知り合って、写真の魅力に取り憑かれてしまったんです。それまで顔を写す写真は好きではなかったのに、その方が撮ってくださった写真が本当に素晴らしくて感激しました。
そのことがきっかけとなり「写真を撮る人ってどんなこと考えているんだろう」と思うようになり、カメラマンを目指すことになったんです。
ー なるほど。それは写真家としての活動にも繋がるような気がして、心が踊ります。カメラマンとしての初仕事はどんなものでしたか?
もともとバンドなどの音楽活動をしている友人が多く、その頃よく顔を合わせていた友人のライブを撮影したのが初仕事でした。22歳くらいのとき、デジカメをはじめて購入して撮影したので技術も何もない状態だったのに、友人がすごく喜んでくれたんですよね。
その頃の私なりに精一杯撮影したけれど、いま見ると笑ってしまうくらい下手な写真だったと思います(笑)。撮影料をいただくのは申し訳ないとお断りしたら、代わりに私が好きだったお酒をいただけることになって…。しかも、一箱まるまるです!12本ほど入っているもので、撮影料よりも高かったのではないかと思います。
そこで、仕事をして対価を得る喜びを覚えてしまったんですよね(笑)。
そのあとは当時、流行っていたmixiというコミュニティを活用したSNSでモデルを探したり、友人にポートレートを撮らせてもらったりしながら、写真家としての作品撮りもはじめました。
ー それからすぐ独立したのですか?
独立したのはもっとあとで2019年です。そのあと地元の医療事務を辞めて、仙台の医療法人へ転職。そこの理事長が写真好きな方だったこともあり、理事長のフィルムカメラを借りて撮影するようになりました。法人主催の写真展があったのですが、在勤中の6年間は作品を出展させていただきました。
その頃からブライダルの仕事もはじめ、医療法人を退職後は仙台のフォトスタジオで3年ほど勤務し、スクールフォトやスタジオ撮影など多くの経験を積ませていただきました。
ー 仙台は働きやすいですか?
地元の栗原との違いになってしまいますが、仕事の需要はありますよね。3年働いたスタジオはいまも間借りする形で、私個人の仕事をお受けしたときも使わせていただいています。またお客様にとっても仙台は街中のレンタルスタジオを気軽に借りることができるし、場所代が手頃なのも魅力だと思います。
あと仙台は、暮らすのに便利そう。私は仙台での仕事がほとんどなので、栗原から出て仙台に住むことや「東京に出たいな」ということを学生の頃からずっと考えているのですが、日々仕事をしていたら今に至るという状態です。
いまは、お客様や仕事で抱えているものは仙台が多いので、宮城を出たいとか逆にいなければならないとかは深く考えていません。時々、東京のカメラマンからも「こっちに来ないの?」と聞かれることがあるのですが、仕事をいただいたときにだけ出張するスタイルが私には合っているのかな、と思います。
ー なるほど。好きなことができるならば、場所は気にならないですね。さて、少し話は戻りますが、以前はプロレス興行の撮影や雑誌のコーナーも担当されたそうですね。
週刊プロレスという雑誌の「みちのくプロレス(以下、みちプロ)」というコーナーを担当したこともありました。ある興行で見かけてからKen45°という選手がとても好きになってしまって(笑)。周りの方には「好き好き」と大騒ぎするのに、本人を目の前にすると何も言えなくなってしまいます。本当にかっこいいんですよ。
ー どんなところに惹かれたのですか?
ルックスも大好きですが、内面的にもとても好きです。
私が勤めていた医療法人が「みちプロ」のスポンサーになって興行を行なったことがあり、そこで初めてKenさんを知りました。私は裏方の仕事をしていたので選手たちのステージ裏での様子もチラリと見ることができて、ステージ上ではたくましくて強い姿を見せているけど、普段はめちゃくちゃ優しい方なので子どもにも人気があります。そのギャップにやられましたね。またバンドもやっていて、ギターを弾く姿も素敵なんです!
人伝に繋がりができて、Kenさん主催の音楽イベントの時に撮影依頼をいただくようになりました。「好きだ好きだ」と言い続けるものですね。私のヒーローです(笑)。
ー 小田島さんの生き方はとてもロックで、かっこいいです!東日本大震災後は、お仕事に変化はありましたか?
震災後からは石巻や女川などに撮影の仕事で行くことが増えました。2013年に石巻のライブハウス「ブルー・レジスタンス」で、内田裕也 presents “NEW YEAR WORLD ROCK FESTIVAL in 東北“というツアーライブが開催されたのを覚えていますか?
そこに知り合いのバンドが出演することになり、その撮影をさせていただいたのがきっかけですね。
当時はテレビ局の撮影も入っていて、ライブの最後に掛け声をみんなでするシーンをテレビクルーが撮影しているとき「私もこのシチュエーションを写真に収めたい!」と思って、シャッターを切ったら怒られて(笑)。でもその写真を関係者が気に入ってくださり、福島と石巻のツアーに撮影班として同行させていただくことになったんです。
その時に内田さん側のスタッフとも意気投合して、その方が石巻で音楽イベント「Ore-fes」を開催するというのでその撮影も毎年声をかけていただいています。個人的にも石巻の友人が増えました。良き友人がたくさんいて、大好きな街です。
ー 「ここぞ」という時は、怒られてでもやるべきですね!
あまり怒られるようなことはするべきではないと思いますが、スタッフさんの足をすり抜けて撮ったので、いま振り返ると私自身「よくやったなー」と…。若さ故ですね(笑)。
小田島 万里(おだじま・まり)
本名・小島美樹。1984年生まれ。カメラマン。宮城県栗原市出身。宮城県宮城野高校美術科卒。ブライダルフォトグラファーを経てフォトスタジオにて勤務の後、独立。
舞台・スクール・婚礼・記念写真・プロフィールや宣材・取材撮影など仙台を主軸に写真撮影業・講師業を生業としながら写真家としても活動中。