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ジョナサン・マクラッチー
2024/3/7 6:44
昨日、私はアイルランドのゴールウェイ大学の法学者かつ倫理と宗教の哲学者であるジョン・ダナハーの記事への回答を始めました。私たちは、ダナハーがID推進者の宗教的動機とされるものに関して発生論の誤謬を犯し、私たちが宗教的信念を隠そうとしていると誤って主張し、『Discovery Institute』の教育のポリシーを誤り伝えていることを見ました。では、還元不能な複雑性からの論議へのダナハーの具体的な批判について取り上げましょう。
論議の定義
ダナハーは次のように書いています。
まず論議の構造を明確にすることから始めましょう。基本的な考え方は、ある種の自然現象、具体的には有機生物の特徴には、主流の進化論では説明できない性質があるというものです。
これは部分的には正しいでしょう。しかし、ここでは述べられていない、論議の他の部分は、これらの同じ自然現象が、意識的で合理的、かつ熟慮する行為者の特徴も帯びているということです。還元不能なほど複雑なシステム (ダナハーの記事の主な焦点) の場合、知的行為者だけが、複雑な終着点を思い描き、その終着点を実現するために必要なすべてをまとめる能力を持つという論議です。したがって、デザインという仮定に立てば、還元不能なほど複雑なシステム (すなわち、複数の精巧に作られた構成要素にその機能を依存する生物学的過程) の存在は、特にありそうにないことではありません。しかし、自然主義的進化の仮説からすると、それらは極めてありそうにないことです。したがって、それらは自然主義的進化よりもデザイン仮説を (圧倒的に、と私は主張したいのですが) 確証する傾向があります。
ダナハーは、還元不能な複雑性に基づくデザイン推論を以下のように表現しています。
- Xは還元不能なほど複雑なシステムである。(例示の目的で「X = 細菌の鞭毛」とする)
- Xが還元不能なほど複雑なシステムであるならば、Xはインテリジェントデザインによってもたらされたに違いない。
- したがって、X (細菌の鞭毛) は知的にデザインされたに違いない。
私は一般的に、自然界では確率的である科学的論議を表現するのに、論理的三段論法が最善の方法だとは思っていません。還元不能なほど複雑なシステムが「インテリジェントデザインによってもたらされたに違いない」と論じるよりも、そのようなシステムは、デザインが無誘導の進化的過程よりも良い説明になると述べる方が細かな差異が良く伝わります。そのようなシステムが、無誘導の進化によってもたらされることは不可能でしょうか?いいえ、しかし非常にありそうにないことです。私が論議の表現に三段論法を使いたくないもう一つの理由は、ある仮説が真であることを確立せずに、証拠の一部によってその仮説の可能性を高めることがよくあるからです。それぞれの論議を三段論法で提示すると、各証拠を個別に評価し、それぞれが決定的でないと分かった上で、すべての証拠を総合してその証拠力を検討するのではなく、次に移ることができるという誤った印象を与えてしまいます。
概念上の問題点とされるもの
還元不能な複雑性に対するダナハーの最初の批判は次のように述べられています。
ネズミ捕りの基本的な機能はネズミを捕らえて殺すことである、と言うのは簡単です。結局のところ、我々はネズミ捕りがデザインされた目的を知っています。すべての部品がなぜこのような形で配列されているのかも分かっています。自然物となると、それはまったくの別物です。物理世界のあらゆる物体、生物、事象は、多くの影響を引き起こします。口は食べ物をすりつぶす便利な装置ですが、バクテリアにとっては繁殖地でもあり、信号伝達の道具 (例えば、微笑みや作り笑い)でもあり、快楽器官でもあり、他にもいろいろです。これらの影響のうちの1つが「基本的な機能」を構成しているというのは、議論の余地があります。
生物学的システムの中に複数の機能を持つものがあるというのは確かに真実です。例えば、ATP合成酵素の主な目的は、電気化学的勾配を下る陽子の流れによって生成されるエネルギーを用いて、ATPの形成を触媒することです。しかし、ATP合成酵素が逆の働きをするというまれな状況もあり、合成酵素としてではなく、(ATPが加水分解で犠牲になることで) プロトンポンプとして作用します。とはいえ、後者の機能にも同様の複雑性が要求されます。別の例を挙げると、細菌の鞭毛モーターの主な目的は、液体の中で細胞を推進することです。しかし種によっては、細菌は鞭毛を使ってバイオフィルム (表面に付着した細菌の群集) を形成することができ、この場合鞭毛は最初に付着する際に役立ちます。しかし、これは二次的な機能です。組み立てシステム、 走化性システム、回転機構の還元不能な複雑性を減じるものではありません。還元不能なほど複雑なシステムには、1つの機能しか持たないものも多く存在します。例えば、DNA複製機構の目的は1つしかなく、それは細胞分裂に備えてゲノムを複製することです。
真剣な論議?
ダナハーは次のように続けます。
ICS (還元不能な複雑性) とされるものの基本的な機能を自然の書から読み取ることはできません。解釈の原理が必要です。そのような原理の一つは、知的デザイナーの意図に訴えることです。しかしインテリジェントデザインの推進者は、デザイナーが誰であるかについて不可知論的であり続けようとするため、これを好みません。
私にはこれを真剣な論議と見なすのは困難です。ダナハーは本当に、鞭毛やDNAレプリソームの主要な機能が何なのか、私たちには分からないと言いたいのでしょうか?アナロジーで考えるために、1000年前に探検家たちが自動車のような現代的な乗り物を発見したとしましょう。さらに、彼らは多くの実験を経て、その車の操作方法を突き止められたとしましょう。それまで現代的な乗り物に遭遇したことがなく、誰がそれを発明したのか分からなかったとしても、彼らはその機械にどのような意図があるかを、つまりある地理的地域から別の地域へ高速で移動するためのものであることをすぐに発見するでしょう。機械がデザインされた目的を発見するために、エンジニアにインタビューする必要はありません。
ダナハーは続けます。
さらに、彼らが正統派の有神論者であることを認めたとしても、問題はあるでしょう。神の精神は神秘的なものです。多くの神学者が神の意図を推測しようと試みてキャリアを浪費してきました。中には、それを試みるべきではないと言う人もいます。神の行動には人知を超えた理由があるからです。
ダナハーが神の精神における思考について語りたがっているので、そうすることにしましょう。私自身は懐疑的有神論者です。これは、神が何をするのか、あるいはしないのかを直感することには極めて慎重であるべきだと信じていることを意味します (マグヌス・カールセンがトーナメントの試合でどの手を指すかについて、チェスの初心者が直感することには懐疑的であるべきなのと同じことです)。神にはすべてを網羅する知識があり、私たちよりもはるかに賢明であることを考えれば、神が私たちにはアクセスできない知識、つまり神の決断の1つ以上に関連する知識を持っているとしても、まったく不思議ではありません。このことは悪の問題にも適用できます。というのも、私たちの限られた観点から、神が妥当な仕方でこの世における自然悪や個人悪の存在を許容することを道徳的に十分正当化できるかどうかを評価することは難しいからです。これは、悪の問題が有神論に反対する点で何の証拠能力もないと言っているのではなく、むしろ、神が何をするのか、あるいは何をしないのか、あるいは何が起こることを許容するのかについて、確信を持って断言できることを誇張しないように慎重であるべきだということです。さらに、例を重ねることによる収穫逓減の問題も存在します。もし神がある悪の事例を許容する道徳的に十分な正当性を持っているならば (たとえそれがどんなに予期せぬものであっても)、神は同様の悪の事例を許容する同様の正当性を持っているかもしれません。したがって、単純に例を次々と無限に追加していくだけで、有神論に反対する論議を強め続けられると期待することはできません。それゆえに、世界における悪の事例は、認識論的に独立したものではありません。
諸刃の剣
懐疑的有神論者が直面するよくある反論は、それが諸刃の剣として働くというものです。なぜなら、それは神の仮説には予言力がないか、少なくとも極めて限定的であることを示唆するからです (これがダナハーの言わんとしていることのようです)。神が何をしそうなのかを確信を持って言うことができないのであれば、どのようにして有神論の論議を築けるでしょうか?しかし、神がおそらく特定の意図を持っていると言い切る必要はなく、むしろそのような意図が非常にありそうにないわけではない(一方で、その仮説が虚偽であることは不条理なほどありそうにない) ことだけを主張すればよいのです。その尤度比がトップヘビーである限り、それは有神論を確証する証拠を提供します。
ダナハーは続けます。
もう一つの可能性は、基本的機能の概念の自然化を試みることです。しかし、これもインテリジェントデザインの推進者にジレンマを突き付けることになります。基本的機能を自然化するよくある方法の1つは、自然選択による進化論に訴えることです。すなわち、あるシステムの基本的機能は、自然選択によって好まれたものである、と論じることです。しかしインテリジェントデザイン理論家の目的は自然選択を貶めることなので、彼らにこの解決策を利用することはできません。
しかしもちろん、自然選択は現実の現象であり、たとえそれらのシステムが実際にデザインされたものであったとしても、適応上の利点をもたらす複雑な特徴を保存するようにまさしく働きます。それで、基本的機能とは生物に利益をもたらすものであり、それゆえに自然選択によって保存されるものと定義することもできるでしょう。この批判もまた、IDについての誤解を露呈しています。
進化的流用
この論議に対するダナハーの2番目の批判は、還元不能なほど複雑なシステムは進化的流用によって説明できるというものです。ダナハーは、IDの支持者は「自然選択について、彼らがその考えを少しでも受け入れるとしたらですが、漸進的で段階的な仕方でのみ働くことができると論じています」と力説しています。これもIDの推進者を誤って表現しています。というのも、IDコミュニティーにおいて自然選択の現実を拒絶するような人を、私は誰も知らないからです (彼は誰を念頭に置いているのでしょうか?)。 重要な争点は、自然選択が起こるかどうかではなく、それが生物の複雑にデザインされた特徴を説明するのに因果的に適切かどうかです。
ダナハーはさらに次のように説明します。
これに対する進化論者の回答はかなり率直です。考え方が間違っている、というのです。細菌の鞭毛は現在のところ、ある部分を変更したり取り除いたりすれば、もはや回転モーターとして機能しなくなることから、還元不能なほど複雑であるというのは事実かもしれません。しかしそれは、現在鞭毛を作り上げている部品が、進化の歴史の過程で他の機能を持ち得なかった、あるいはその期間において還元不能なほど複雑ではない他のシステムに寄与できなかったということを意味しません。鞭毛は一連の進化の最後に出現したシステムですが、 進化は開始時にそのようなシステムを想定していたわけではありません。進化は知的に方向づけられた過程ではありません。(生存や繁殖に寄与して) 機能するものは何でも保存され、増殖し、機能する欠片や断片は、機能する他のシステムに統合されることがあります。それで、ある特定のタンパク質は、ある時点では生物に有用なシステムに寄与していたものの、後の時点では別の、より新しいシステムに流用されたかもしれません。
この反論にはすでにうんざりするほど回答がされています。 簡潔に言うと、鞭毛タンパク質の相同性を指摘しても、還元不能な複雑性からの論議は損なわれません。というのも、タンパク質を流用して鞭毛システムを産み出すことは、新しいシステムを実現するための複数の同時並行的変化に依存しているからです。例えば、鞭毛特有のタンパク質は、鞭毛システムに組み入れられるまでは選択的優位性をもたらさなかったでしょう。しかし、これらの鞭毛特有のタンパク質が生じる前に、他のシステムで役割を果たしている必要なタンパク質が鞭毛システムに組み入れられるようになることはないでしょう。相補的なタンパク質-タンパク質結合界面や、タンパク質が適切な順序で組み合わされることを保証するように構成された (細菌の染色体上で転写階層に組織化されている鞭毛遺伝子に依存する) 組み立てシステムも必要になります。より詳細な議論については、こちらの私の以前の記事をご覧ください。
細菌の細胞分裂やDNA複製機構など、いくつかの還元不能なほど複雑なシステムの場合、流用という選択肢は存在しません。なぜなら、これらの過程は自己複製にとって根本的なものであり、次いで自己複製は差異的生存 (すなわち自然選択) の必要条件だからです。したがって、これらの過程は進化的過程が機能するのにさえ必要不可欠なのです。
結論
結論として、還元不能な複雑性に対するダナハーの批判は、情報に乏しく、インテリジェントデザインとその主な擁護者たちが論じていることへの誤解に基づいています。以上の指摘が、私たちの相違点を明らかにするのに役立つと確信しています。