スティーヴ・エリクソンは現代最高の幻視者である。アメリカ大統領ジェファソンの黒人女性奴隷の愛人サリーや、ナチスの独裁者ヒトラー専属のポルノ作家バニングなどをあまりにも生き生きと描き出す魔術的リアリズムは、独自のものだ。しかし現代は幻視者にとって暮らしやすくはない。彼は生まれる時代を間違えたのではないか、その根本は19世紀ロマン派なのではないか。
本書もまた、著者が言葉のあらゆる意味においてロマンティックであることを裏書きする。ここからあぶりだされるのは、おびただしい女性たちとの恋愛の挫折を経てぼろぼろになり、現実と幻想の区別、記憶と夢の区別もあいまいになりながらも、いまなお生死を賭けて世界の変革を妄想する三文映画評論家の肖像なのだから。
舞台となる近未来とおぼしき大震災後のロサンゼルスでは、時間の流れ方が異なる無数のタイムゾーンが併存する。「いま/ここ」ではないもうひとつのアメリカ、とくにアムニジア(記憶喪失)の街・ロサンゼルスをダイナミックに幻視するのは、エリクソン文学の真骨頂だ。原著を刊行した1996年、著者は道徳など知らぬ新道徳主義者や魂が悪意に染まった新正義派および新愛国主義者の勃興に憤っていた。そんな閉塞感を打開するのに、彼は記憶の問題を根本から問い直す。
興味深いのは、主人公の目下の恋人ヴィヴが「メモリスコープ(記憶鏡)」なる彫刻を作り、それによって得られる太陽の目もくらむ光で人間が「いちばん忘れている記憶」を見ようと企むところだ。そして最大のクライマックスは、作家がかつて自身の小説内部の作中人物として創作したにすぎない伝説の映画監督アドルフ・サールが実在し、そのだいひゅおてきな無声映画『マラーの死』の上映会に招待される場面で訪れる。
現実が虚構化するばかりか、捏造が実在化する魔術的小説。旧来の愛読者には、エリクソン文学ならではのスターシステムがぞんぶんに味わえることも保証しよう。