1) Aku menangkap ayam itu.
2) Ayam itu kutangkap.
こういうセットを立てて,2) の ayam itu を「主語」と見なす.ayam itu が「主語」として目に映れば,その後に続く kutangkap は「受動」となるより他に道がない.
しかし,
1) Aku menangkap ayam itu.
3) ayam yang kutangkap itu
もし,1) 2) でなく,こういう 1) 3) のセットを基準としたら,3) の ayam がどう見ても「主語」に見えるということにもならず,それに続く動詞形 kutangkap をどうしても「受動」と見なさざるをえない,ということにもならない.
要するに,kutangkap が「受動か能動か」の問題は,1) の aku, 2) の ayam itu は何かの問題と表裏の問題だということ.「受動か能動か」の問題は「主語」論の方で解くべし,というのが,私の考えである.
●能動論者は,2) を「主要語・活用形動詞」(Ophuijsen),「目的語・人称形動詞」(Mees) のように見ている.