渡良瀬渓谷編(5):旧足尾精練所(17.11) : 散歩の変人

渡良瀬渓谷編(5):旧足尾精練所(17.11)

 そして廃墟となった精錬所と大煙突、その背景の荒涼たる山肌を対岸から遠望しました。
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 莫大な富を国家と古河鉱業にもたらし、甚大な被害を自然と民衆に与えた足尾銅山と精錬所。あらためて足尾鉱毒事件とは何だったのか、そこからどんな教訓を得たのか、あるいは得ていないのか。深甚なる反省とともに振り返る必要があると思います。この事件に真剣に向き合った三人の言葉を紹介します。

『近代日本一五〇年 -科学技術総力戦体制の破綻』 (山本義隆 岩波新書1695)
 歴史書には「慢性的な輸入超過により巨額の貿易赤字を抱えているなかで、輸出総額の5%を占める産銅業は重要な外貨獲得産業であり、日本最大の産出量を誇る足尾銅山に対して操業停止措置はとられなかった」とある。
 1905(M38)年1月23日、農商務省鉱山局長・田中隆三は衆議院鉱業法案委員会で「鉱業と云ふものは、其国家の一つの公益事業と認めている、随って其事業の結果として、他の人が多少の迷惑を受けるということは仕方がない」と明言している。そして1907年、鉱毒沈殿と渡良瀬川の洪水調節のためという触れ込みで計画された遊水池の予定地となった谷中村は、村民の反対にもかかわらず滅亡させられた。官民挙げての「国益」追及のためには、少数者の犠牲はやむをえないというこの論理は、その後、今日にいたるまで、水俣で、三里塚で、沖縄で、そして日本各地で、幾度もくり返され、弱者の犠牲を生み出してきたのである。(p.87~8)

『京都新聞』(2016.11.27) 姜尚中 思索の旅 「1868~」 第8部 近代の奈落 (下) 人間無視 時代跨ぐ
 水俣病の原因のうち、小の原因は有機水銀、中はそれを垂れ流したチッソ、そして最も大きな原因は、人を人とも思わない、人間無視、人間差別であると喝破したのは、胎児性水俣病の発見者である原田正純さんだ。(『水俣が映す世界』)
 人の生命を鴻毛のように軽く粗末に扱うのは、何よりも戦争である。戦前の日本は明治以来、日清戦争、日露戦争、第1次世界大戦、シベリア出兵、満州事変、日中戦争、アジア・太平洋戦争と、まるで戦時の連続の中にエピソードとして平時が挟まっているような七十数年を閲した。戦後、民主日本は、そうした時代の反省の上に、人を人と思わない人間差別を撤廃し、人間が人間として尊ばれ、人間を活かす社会を目指してきたはずだ。
 だが、水俣病はそうした社会建設の最も活況を呈した時期(高度成長期)に発生し、今日でも水俣病は過去になってしまったわけではない。どうして人間の忌まわしさを映した過去は死なないのか。
 それは、今でも、というより、戦後もずっと人を人と思わない状況が続いているからではないのか。この意味で、百数十年の星霜を経ても過去になりきれないという意味で、足尾銅山鉱毒事件ほど、公害の原点と言うにふさわしい公害はない。それは、戦前と戦後を跨いで、人間無視、人間差別の公害として近代の奈落から日本の歩みを問い続けているのである。
 なぜ政府は、こうした凶暴無残な破壊を強行したのか。その狙いは、谷中村に「瀦水池」を設け、洪水の際に横溢する、足尾銅山の毒水が江戸川にまで流れ込み、帝都東京に浸潤することを防遏することにあった。だが、もともと洪水とそこに溢れ出す鉱毒は、銅鉱の流毒と山林濫伐に起因していた。そして山林の濫伐と鉱毒流出は、政府が「七千六百町の大森林」を新興財閥の古河に払い下げたことから始まっていたのである。
 そうした銅山の流毒と山林濫伐の害を蒙ったのは、谷中村など、渡良瀬、利根の二流の跨れる、栃木、群馬、茨城、埼玉の村々だった。にもかかわらず、「関東中その比なき豊饒の沃土」であった谷中村は、資本と国家の「罪迹を湮滅」するために滅亡させられ、瀦水池に埋葬されることになった。
 谷中村の滅亡に至るプロセスと、一村の存続そのものが消去されていく歴史を見れば、そこに水俣病の歴史の雛形のようなパターンがすでに日本の近代の草創期に孕まれていたことに気づかざるを得ない。それは、日本の近代化の「通奏低音」のように、その後も形を変えて繰り返されることになったのだ。
 半世紀ほど前、ここを訪れた作家の石牟礼道子さんは、その光景を「赤茶けた冥府の谷」と呼んだ。この冥府は、繁栄するかつての帝都、そして現在のメトロポリタン・TOKYOがその背中に負う近代の奈落でもある。石牟礼さんは言う、「この国の首都の背中が、骨の髄から腐れていることがよくみえる。(略) 『この腐れ日本が!』と」。

『谷中村滅亡史』 (荒畑寒村 岩波文庫) 解説:鎌田慧
 谷中村が滅亡させられたのは、そこをダムにして、渡良瀬川とそれを受ける利根川の洪水を防ぐ、との名目によっている。しかし、洪水の発生は、その上流にある足尾銅山の鉱滓の堆積と燃料などの採取のための森林乱伐による。つまりは資本家の勝手によるものなのだが、それを取り締まることなく、村を潰してダムをつくるのは、強盗に遭った被害者を殴りつけ憂さ晴らしをするようなものだった。そのようなデタラメを可能にしたのは、古河市兵衛、陸奥宗光、原敬による閨閥であり、県知事の任命制だった。
 荒畑寒村は、江戸川に流れ込む利根川の鉱毒水が、本所小梅の榎本武揚の邸内を襲って狼狽させた、と書いている。江戸川の氾濫が政府を恐怖させた。政府と県当局が、谷中住民にたいして、「脅迫、詐偽、賄賂、略奪、すべての悪政暴虐の限りを演出し、一世の義人田中正造翁をして、「村泥棒入れり」と悲憤の弾劾を絶叫せしめ」たのだった。「渡良瀬川下流の沿岸は、政府の都市中心政策と足尾銅山とのはさみ打ちにあったのである」(森長英三郎『足尾鉱毒事件』下)。
 しかし、それを悪政暴虐と呼ぶなら、たとえばついこの間の、なんら大義名分をもたない「諫早湾干拓」の蛮勇や「長良川河口堰」の強行は、閨閥に関係のない近代国家でおこなわれたことをなんと呼ぶべきだろうか。さらには、砂川米軍基地の建設や成田空港建設に使われた強制代執行と谷中村との間に、どのような民主主義の発達があるといえるのだろうか。さらにいえば、「国家的な事業」といって農民の土地を低額で買収し、核燃料サイクル基地を建設している青森県六ケ所村にたいする欺瞞と恫喝が、かつての強権明治政府に従属した県の姿勢と、どのようなちがいがあるといえるのか。政府当局はどう答えるであろうか。
 あるいは、学者の曲学阿世ぶりについていえば、水俣病や三井三池の炭塵爆発にたいする荒唐無稽な言説が、被害の防止と被害の解決とをどれだけ遅らせたことか。それらの非合理の証明として、あるいは幾多の住民や労働者を鉱毒によって斃死させたモニュメントとして、いまなお足尾銅山の山容は荒廃のままだ。「公害の原点」といわれる所以である。
 公害は拡散し、「環境問題」として世界化している。ダイオキシンにしろ、二酸化炭素にせよ、フロンにせよあるいは温暖化防止口実にさらに増強しようとする原発建設にせよ、相変わらず大量生産をつづける発生源の規制なしには解決しようもない。(p.193~4)

 足尾鉱毒事件に関連する史跡などをめぐった旅行記を以前に上梓しましたので、よろしければご一読ください。

by sabasaba13 | 2024-04-04 07:01 | 関東 | Comments(0)
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