岡山・広島編(38):吉備路(16.10) : 散歩の変人

岡山・広島編(38):吉備路(16.10)

 まずは掃苔です。記念館に行く途中の墓地に彼のお墓がありました。合掌。なお犬養毅のお墓は青山霊園にもあるそうです。その隣に仲良く並んでいた墓石には「犬養健之墓」と刻まれていました。犬養健(たける)、毅の三男ですね。たしか、敗戦後に吉田茂内閣で法務大臣を務め、自由党幹事長佐藤栄作の収賄容疑(造船疑獄)での強制捜査に対して指揮権を発動して、逮捕の無期限延期と任意捜査に切り替えさせた方だと記憶しています。ご尊父を敬慕して隣に墓をつくらせたのかもしれません。
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 そしてすぐ近くにある犬養毅の生家へ。さすがは大庄屋、質朴ながらも風格のある民家でした。
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 木堂記念館には、犬養毅の足跡をしのぶ遺品、写真、手紙などが展示されていました。
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 さて、犬養毅に対する歴史的な評価ですが、国民のために尽力した政党政治家であることは言えると思います。ただ権力に対する執着心もかなり強かったようで、浜口雄幸内閣(立憲民政党)のロンドン海軍軍縮条約調印に対して海軍・右翼ととも「統帥権干犯」と攻撃し、立憲政友会の手に政権取り戻そうとした件は解せません。これによって軍部の発言力が強くなり、国民が政党への不信感を持つようになったことを考えると、その責任は免れないでしょう。なお牧原憲夫氏は、『日本の歴史13 幕末から明治時代前期 文明国をめざして』(小学館)の中で、さらに大きな視点からこう指摘されています。

 国内で警官と張り合っても「わが日本」は意識されないし、台湾出兵時のような優越感に基づくナショナリズムも、差別意識以上の行動エネルギーは生み出さない。だが、「わが同胞が殺された!」となれば話は別である(筆者注:甲申事変)。被害者意識こそ攻撃的なナショナリズムの源泉なのだ。しかも、清国への報復をあおりたてた旧自由党系の『自由燈』は、その一方で、〈水戸の隠居(徳川斉昭)が攘夷攘夷と唱え〉たのは、〈三百年の太平の夢の覚めない日本国を死地に落と〉して人民を奮起させ、〈戦争嫌い〉の幕府を倒すためだったと明言した。つまり、大井らは民権(国内の変革)を放棄したわけではなく、むしろ、「革命」のために攘夷をとなえた尊攘派の後継者だったのである。そして、維新で成功したこの政治手法は、日露戦争の講和反対運動や、軍縮条約を「統帥権干犯」と称して浜口雄幸内閣を追い込んだ政友会の犬養毅など、この国の反政府ナショナリズムの基調となり、戦争と侵略の推進力になっていく。(p.288~9)

 余談ですが、『宇垣一成 政軍関係の確執』(渡邊行男 中公新書1133)によると、岡山の近代三傑は犬養毅・宇垣一成・平沼騏一郎だそうです。(p.241)

by sabasaba13 | 2022-03-14 09:16 | 山陽 | Comments(0)
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